今日は二子玉川駅前の瀟洒なビルで「認知症患者・家族が人生の主人公であり続けるための『コト』のデザイン」というテーマのワークショップに参加してきました。


参加者は約70名程。多くはビジネスパーソンで、男性比率は8割ちょっと。ビジネストレンドをテーマにした色々な場に顔を出していて、知識豊富で異業種交流が日常的な人達というところです。大企業の人が半分位はいたのかな。


楽しかったです、はい。・・・それ以上の感想がわいてこない。それだけ明るくポジティヴな場だったのですが。あれ、それで良かったのかな。


ワークショップの質はA級。ストレス無く滑らかな進行、少しだけあるプレゼンテーションも面白く端的。椅子・テーブルのような道具立ては、大抵のワークショップでは会話のジャマになるのですが、それは全くありません。ジャマせず場に溶け込んでいる感じ。参加者も明るく知的で会話が面白い。何の不満も無く、さわやかな清涼飲料水をごくごくと飲んで、さぁ次に行こう!っていう。


多分何かが欠けていたと思います。心に引っかき傷が出来なかった。どうも当初の予定では、認知症患者の方が登壇される計画だったのですが、体調をくずされてご欠席。もしご登壇されていれば、感想は違っていたかもしれません。


この登壇されるはずだった方の手記が配布されたのですが、これは「印象に残った」という意味で、大変素晴らしいものでした。


人は自分を幸せにしておける口実を持っているものですが、認知症によりその口実が無くなってしまった人がどのように感じ、そしてどう救われていくのか。手記にはそのようなことが書いてありました。もし自分が同じ立場に立ったら?と想像することは、おそらく誰にとっても居心地の悪いことでしょう。


仮に、みんなで読書会のごとく手記を読み解き言いたいことを言い合えば、己の境界線がくずれて、何とも混沌とした制御不能な空間になったのではないかと夢想します。手記の筆者は強い人でしたが、同じ状況に置かれた場合、おそらく大抵の人は(僕も含めて)精神的な死を迎えるでしょうから。


最後にその方はどのように救われたのか、文章をそのまま引用します。50歳代後半の男性の方です。


~引用開始~

納品場所を探すのに時間がかかるようになり、精神科医に相談すると、脳のCTをとるようにいわれた。脳に萎縮が見られ、認知症だと診断される。3ヶ月後会社を自ら退職。

・・・
日々の様子を入力していたパソコンが故障してパニックを起こし病院にかけこむと、主治医より「男性の一人暮らしでは介護保険のヘルパー派遣は無理、グループホームに入居するよう」勧められる。一人暮らしは無理と言われさらに混乱して寝込むようになり、弟の判断で故郷に帰る。


実家で1日中眠り続ける日が何日もつづき、ついに目が覚めて眠れなくなり、その夜は雨で外に気分転換に出ることができず気が狂いそうになり、神様に次のように祈りました(※この方はクリスチャン)。


「愛する天のお父様 私はいま気が狂いそうです、どうか正気にもどしてください。ただし、私の気が狂うことが神のみこころならば、私はそれを受け入れます。すべてを神に委ねます。アーメン」


そうすると、心に平安が戻り、眠りにつくことができました。この時から全てを神にゆだねることが出来るようになりました。

・・・

人間の価値を有用性だけで決めるのでなく、人間は自分で生きているのではなく、神様によって生かされているので、自分は認知症になって無価値の存在だと卑下したりする必要はありません。人と比べないで生きています。失われた機能に目をむけるのではなく、残された機能に目をむけて生きることが大切だと思います。


毎週教会に通い、礼拝に出席して心の平安を得ていますので、将来への不安はありません。私は、認知症になって不便なことは増えましたが、決して不幸ではありません。


最近まで、毎日することがなく無気力な生活を送っていましたが、現在は毎日、聖書を20ページよみ、1日7000歩、歩くことを目標設定して、それを達成することにより、満足感・達成感を感じて、張りのある生活を送っています。

~引用完了~


「ただし、私の気が狂うことが神のみこころならば、私はそれを受け入れます。」という部分は、覚悟を固めるとはどういう行為なのかを端的に表現している箇所だと感じます。人は覚悟をするたびに魂が成長するといいます。この方は、大きな成長の機会を与えられ、見事にその機会を活かしたといえるでしょう。


スピリチュアル用語でいうところのアセンション(霊的成長)とは、こうした覚悟の繰り返しになります。おそらくこの認知症の方は、もう究極に近い所までに達しているのではないでしょうか。