秀吉が都を囲んだ御土居の一部(御土居・紫竹) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
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愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(8月27日のこと)です
堀川通りを下って行くと、親父とこ行くときあつも気になってたものがありました
(親父とこ行く時は上がってる時に見るのですが)

それは豊臣秀吉が築いてた御土居の一部です
住所・京都市北区紫竹上堀川町
駐車場・なし
御土居の跡は過去に何ヵ所が見に行ってます
またそのうちまとめたいと思います

堀川通りを挟んで両側にあり、左側に解説板があります

解説板
史跡御土居 
  御土居は、天正19年(1591)豊臣秀吉が長い戦乱により荒廃していた京都を整備すべく都市計画を行ったとき、外敵の来襲にそなえ、その防塁として築いた土塁 (土居)である。その範囲と構造は右図のとおりで延長は23キロメートルに及び、 これによって京都が洛中と洛外に分けら れた。多数の人々を動員して築造した御土居ではあったが、江戸時代になると、提防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々にこわされ、北辺を中心に部分的に残存するのみとなった。
  ここ紫竹上長目町、同上堀川町に残る御土居は、御土居の北東隅にあたる重要な部分であり、昭和5年(1930)7月8日、市内に残る他の 7カ所とともに、京都の沿革を知るうえで、またわが国における都市計画の歴史を知るうえで重要な遺跡として国の史跡に指定された。なお、その後、北野天満宮境内の1か所が追加指定され、現在では9か所の御土居が国の史跡となっている。 
  京都市
(原文のまま)

図の部分のアップ


今回訪れたのは丸で囲んだ位置になります指差し

解説板から少し下がったくらいから

南側から

北側から

先ほども書いたように堀川通りにより寸断されています😅
反対の歩道から

そしてこちらは先ほど見た方から見た反対側

南側は京都市立加茂川中学校になります

ほぼ横から見たとこ

こちらには石碑が建っています

その横には小さな川が流れていました

御土居に沿っているから、明らかに御土居とセットになってる川のようです!?🤔

川に架かってる橋と反対側の御土居

どうも御土居は賀茂川沿いに走ってる加茂街道沿いにもあるようだったので、そちらにも回ってみました
家(右手)と中学校に挟まれています

そして加茂街道から見ると、御土居の角っこであることがよく分かりましたひらめき

そこから街道沿いに御土居が少し残ってます


角にあった立派な木

こちらにも解説板がありました

書いてあることは同じなので省略

中学校のとこで終わってました😅

この日のこと続きます
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ