以仁王が挙兵する一因となったと言われるお寺(城興寺) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(10月14日のこと)です
烏丸通りを上がって行くと、再び九条通りまで戻ってきました🤣
その2つの通りが交差する交差点から少し上がると、左手に参道があります
城興寺(じょうこうじ)
住所・京都市南区烏丸通九条上ル西入ル
御本尊・千手観音菩薩
HP・城興寺 

札所・洛陽三十三所観音巡礼(第22番)
駐車場・あり?
本堂の奥にあるような感じでした

烏丸通りから細い参道を少し行くと
山門

手前にこちらの看板

駒札
城興寺
  瑞宝山と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、洛陽三十三所観音めぐりの第二十二番札所となっている。この地は、太政大臣藤原信長の邸宅であったが、知足院関白藤原忠実(ただざね)が伝領して、永久元年 (1113)に寺に改めたといわれる。
  創建当初の規模は明らかではないが、寺宝に有 する境内伽藍図には現在の烏丸町全域にわたって寺域としていた様が描かれている。 
  当初は、四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場であったが、のちに天台宗となり、天台座主最雲法親王の没後、その弟子の以仁王が当寺を領した。 その後、治承3年(1179)、平氏によって寺 領を奪われ、このことが、平氏討伐の挙兵の一因になったと考えられている。中世を通じて、延暦寺の管理に属したが、応仁の乱後、衰微し、現在は円仁の作と伝えられる本尊千手観音像を安置する本堂のみが残っている。
   京都市
(原文のまま)

山門くぐったすぐ右手に授与所があります
朱印受付
午前9時から午後4時30分

左のが本堂
駒札にも書かれていたように、建物はこれくらいです

前のは供養塔?

本堂正面から

本堂の前に社があります

正面寄りから

狛犬が特徴的なものでした爆笑


正面から

由緒
病気平癒と夫婦円満のお稲荷さん
薬院社の由来
薬院さんの名で親しまれている当「薬院社」は元の名を施薬院稲荷といいます。 平安の昔、当地の西北200m (東九条中殿田町)の地に施薬院がまた北100m(上殿田町)には施薬院御倉(みくら)がありました。
施薬院は奈良時代、聖武天皇光明皇后が創始された医療と施薬の役所で、今日の病院と福祉施設を合せた施設でした。平安初期 左大臣藤原冬嗣が私財を投じて彼の地に施薬院を開設し、以来摂関家藤原氏の支援に依って維持、運営されました。しかし鎌倉初期これらの施設は他処へ移転し、御倉跡の「薬院の森」には施薬院稻荷の祠が残り、以来地元・東九条の人々が村の鎮守さまとしてあがめ親しみました。
明治になって廃仏毀釈運動に続いて辻堂廃止令が発布され明治11 年(1877)施薬院稲荷も廃止の憂き目を見るところでしたが、 地元農民の熱意により当、城興寺の陀枳尼天堂に合詞されました。
陀明尼天は、もともとヒンズー教の性愛の神でしたがインド仏教にとり込まれ、中国、日本と伝来するうちに天部の一人とされ俗に女稲荷とあがめられる仏様になられました。
施薬院稲荷が陀枳尼天に、いわば婿入りされたわけで、以来二躰のお稲荷さんは仲睦まじく鎮座して夫婦円満を示現され、医療・ 施薬をとおして、私たちの健康で稔り豊かな明日を願いつつ見守っておられます。
  夫婦は仲良くしてください。
    それが幸福の根本であります。(当山住職)
◎摂社次郎吉稻荷 大銀杏の元に鎮座するお稲荷さんで、 あなたの唯一の「願」だけ叶えて頂ける神さまです。
(城興寺境内) 施薬院稲荷・薬院社  奉賛会
(原文のまま)

その前には摂社 次郎吉稲荷

こちらで頂いた御朱印(300円)です

この辺りの散策はこれでお仕舞いなのですが、帰りに近くを通っていて気になってたとこへ寄ってみました
ほれでこの日のことは最後になります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ