前回からの続き(11月12日のこと)です
後藤象二郎記念ギャラリーを後にして、再び高瀬川沿いの西木屋町通りを下って行きます
今度は蛸薬師通りに入って行きます
すると、右手に提灯が見えてきます
そこが今回の目的地
岬神社(土佐稲荷)
住所・京都市中京区備前島町317
通称 土佐稲荷
御祭神 倉稲魂命 石栄神
駐車場なし
駒札
岬(みさき)神社(土佐稲荷)
祭神は「倉稲魂命」と「石栄神(せきえいのかみ)」の二柱(柱は神様を数える単位)。農耕・商売・土木・金工など諸業の繁栄、火難除けなどの災厄除けにも御利益がある。
社伝では、室町時代初期、鴨川の中洲の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされている。その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなった。一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになる。
以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土神(うぶすなのかみ・地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩邸内に、一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどである。藩士たちの信仰も厚く、坂本龍馬や中岡慎太郎らも詣でていたと考えられる。
その後、明治維新により土佐藩邸が売却されるとともに、神社も移転を余儀なくされ、その後幾多の遍遷を経て現在地に鎮座、大正2(1913)年には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立された。
氏子地域は、北が三条通、南は四条通、東は先斗町、西は新京極、例祭は6月10日。近年、氏子たちの力が結集された崇敬会が発足し、明治10(1877)年から伝わる神輿も修復され、例祭に巡幸する。
京都市
(原文のまま)
本の方でも書かれてたものを見つけたので書いておきます
こちらにはもう少し詳細に書かれてました😲
もとは一町南の下大阪町に鎮座
創始は貞和4(1348)年9月28日と云う
備前国西大寺村の新右衛門が、鴨川の中洲の岬に祠を建てて祀ったのが始まり
この本では
高瀬舟運の発展と共に二条から四条に至る中洲地域が開発整備され、諸施設ができ始めた頃、岬神社周辺が土佐藩の京邸になった
と書かれており、微妙にニュアンスが違ってました🤔
天明の大火(1788年)の時、同藩邸は三方を火に囲まれながらも、奇跡的に類焼を免れたということです
人々は土佐稲荷の霊験であると、「大火とまり」と言って不思議がったという話が伝わっているということです
(京都史跡事典参照)
神門