業平の隠棲地で見事な桜があるお寺(十輪寺) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(4月16日)のことです
善峯寺を後にして、山を下って行きます
その途中にお寺があるので寄ります
十輪寺
住所・京都市西京区大原野小塩町481
通称  なりひら寺
御本尊 延命地蔵菩薩(腹帯地蔵尊)
札所  京都洛西観音霊場(第3番)
駐車場 無料のがあり
市内からだと、上の画像の歩いて上がる階段より先に車の入り口があります
ちなみに、今回は駒札が多く、文字多めとなります😅
多分、通常の倍くらい😓
気になったとこだけで読んでみてください😌

階段の左手側
寺号標…でいいのかな?🤔

駒札
  十輪寺
 小塩山と号する天台宗の寺院である。
 平安時代の六歌仙の1人で、「伊勢物語」でも知られる在原業平(ありわらのなりひら)が晩年隠棲したと伝えられ、なりひら寺とも呼ばれる。
 寺伝によれば、嘉祥3(850)年、文徳天皇の后・染殿皇后の安産祈願のために、比叡山の恵亮(えりょう)和尚を開山に請して創建したものと伝えられている。以後、勅願所として栄えたが、応仁の兵火により堂宇は焼亡し、江戸時代の寛文年間(1661〜1673)に、公卿の藤原定好により再興され、更に、藤原常雅により堂宇が整備され、現在に至っている。
 鳳輦形(ほうれんがた)という珍しい屋根をした本堂には、皇后の安産祈願に霊験があったといわれる本尊の地蔵菩薩(腹帯地蔵)や、花山天皇が西国巡礼の際に背負っていたと伝えられる十一面観音(禅衣観音)を安置している。
 また、本堂の裏山には、業平の墓と伝えられる宝篋印塔や業平が塩を焼いて、その煙にかつての恋人・二条后(藤原高子)への思いを託したといわれる塩がま跡がある。毎年5月23日の塩がま清祭には、三味線に似た三弦を用いた三弦法要が営まれる。
  京都市
(原文のまま)
上のことを由緒書きから補足すると
染殿(そめどの)皇后【藤原明子(あきらけいこ)】が産まれた皇子はやがて清和天皇
めでたく安産祈願が成就したとこから、文徳天皇の勅願所となったようです
その後、藤原北家(花山院家)が帰依され、一統の菩提寺とされた
ということです
(緑の部分は由緒書き参照)

階段の右手側
石標は業平卿旧跡墳墓地とあります

十輪寺と謡曲「小塩」
 都の人が大原野へ花見に行くと、平安朝時代に美的生活を送った在原業平が仮の姿であらわれ、歌を詠じたり舞いを舞ったり、かつての優雅さをしのび、夜の明けると共に消え失せるというのが謡曲「小塩」の骨子ですが、この十輪寺は小塩山と号し、業平とはゆかりの深いところで、本堂背後の地に業平塔があり閑居の地と伝え、また彼が難波(大阪)から潮水を汲みよせて塩を焼いたという塩窯の跡や潮溜池などがあり、毎年5月28日には業平忌が営まれている。
 なお業平は平安初期の歌人で在中将といい阿保親王の第5子(825〜880)情熱的で「伊勢物語」のヒーローといわれている人。
   謡曲史跡保存会
(原文のまま)

階段を真っ直ぐは上がれないので、右手へ行くと

山門が見えてきます
駐車場はこの右手にある道の咲き乱れになります

山門

  京都府指定文化財
十輪寺本堂・鐘楼(江戸時代)
  平成元(1989)年4月14日指定
  京都府教育委員会
(一部抜粋、年号補足)

  文化財指定
本堂(鳳輦形)
寛延2(1750)年  応仁の乱後再建
鐘楼
寛文6(1666)年建立

横の開いてるとこから入って行きます

山門を裏側から
で、入ったとこの正面が受付兼授与所になっていました
画像、撮り忘れてますがwww
そちらで拝観料400円を納めます
室内以外は撮影OKでした😄

ここから先が有料区域となります

門をくぐった光景


右手に池と、渡り廊下が見えます
逆光になって分かりにくいですが😅
その先に本堂があります

その渡り廊下の先に中庭があり、屋根より高くあるのがなりひら桜となります
なりひら桜の推定樹齢は200年くらい

池を本堂側から

本堂の上がり口に手水鉢

本堂
こちらから上がって、室内の拝観が出来ます



本堂の前が庭園になっているのですが、そこには立派な樹が2本ありました
業平〇楓(紅楓だか書かれていて「もみじ」となってました、読めないんです💦)

その隣にも大木がありました

大樟樹(おおくすのき)
樹齢800年、本尊が樟でつくられているでその分身としている。伝説によると、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にならしめたというので願かけ樟ともよばれ神木としている。
(原文のまま)

鐘楼・不迷鐘まよわずのかね)

駒札
文化財指定  鐘楼
  不迷鐘まよわずのかね
自分で決心がつかず迷っている時、この鐘をつくと、決心がつく不思議な鐘である。但しつく方法がある。
これに従わないとご利益がない。
   方法
一、本尊の前で百円を供えて祈る。
二、息を止めて一気に一点つく。
        音がなくなるまで息をしない。
三、再び息をした時、決着する。
若しそれができない時は、始めから同様に行ってみる。極意を要する。
注意  みだりに鐘をついたり、連打をしないこと。
 右悉知   当山
(原文のまま)

その近くの石仏など

山手側に参道があります


そこから見えるなりひら桜と境内
奥の大きなのが大樟樹
そのデカさが分かって貰えると思います😁

その先に在原業平旧跡があります
最初に在原業平卿之墓

その先に駒札に窪地が見えます

駒札
  在原業平朝臣塩竃之由来
 業平朝臣晩年当寺に閉居されここに塩竃を築き難波の海水を運んで塩焼く風情を楽しまれたと云う。
想い人であった二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣される時、ここで紫の煙を立ち上らせて想いを託したと伝えられている。
 中世以後業平信仰が生じて、謡曲「かきつばた」には歌舞の神とされていることから塩竃を清めて煙を上げ、それに当ると良縁成就、芸事上達とぼけ封じ中風除け等々を願うようになった。
この跡は地形は原型のままであるが塩竃は数十年前に古事に因んで復元したものである。
 毎年11月23日「塩竃清めの祭」が行われる。
法要は当山古来の秘法、密教加持で紅葉を炊き塩で封ずる念法である。
  当山執事
(原文のまま)
ここの地名・小塩もこの古事に由来したものというのは納得出来るものでした
ここでも地名と歴史の関係性を感じることが出来ました照れ

塩竃の跡
飛地境内には汐汲池もあるそうです

本堂上がって、渡り廊下からの庭園の眺め



そしてこちらが中庭の三方普感の庭
奥に見えるのがなりひら桜

解説
 三方普感庭由来
寛延3(1750)年右大臣藤原常雅公が本堂を御再興された時に造られた庭で、三方とは、高廊下(南側)、茶室(北側)、業平御殿(東側)である。普感とは、仏の遍万している大宇宙を感ずる、という意味である。まず高廊下から見下すと、雲海となって見える。即ち高廊下を天上界と想定し、自分が天人となったつもりでこれを感ずるのである。次に茶室から見ると、小塩山となって見える。その昔の業平の塩焼の風情を偲び、二條后との情熱の恋を想うもので、人間世界の現実観を感ずる処である。最後に業平御殿に到って海底の荘厳微妙なる極楽浄土の世界を感じとるというのである。大きな三個の石は過去、現在、未来を表現するもので、この小さな庭に大宇宙を観ずるということはここに由来する。又、部屋の中から、かつて公家達がそうして眺めたように、横たわって手枕をして見ると、又別の世界が開けるといわれている。
  江戸時代幕府に圧せられて、冠位だけは高かったが権力にも財力にも乏しかった藤原の公家達は、豪華な庭を造るには及ばなかった。その為、このような小じんまりとした空間の中に広大なものを眺めようとして、この三方を考案したという。場所を変え、角度を変え、想いを変えて観賞しようとしたことで、眼てわみるものから心で観ずる抽象風なものに転じていったのである。他に類をみないこの庭園の特色である。
 十輪寺
(原文のまま)

狭い空間に石組と桜

もう桜は散っていましたが、それでも撮っていて飽きないものでした爆笑
過去には「そうだ 京都、行こう。」にも使われていたようですが、そのポスターがありましたが、これまた庭いっぱいに広がった桜が圧巻でした!爆笑

上を見上げる
桜が満開の頃は、さぞかし美しい景色が広がっているんだろうな!?と思うものでしたおねがい

写せない室内には、立派な襖絵があり、そういうのが好きな方には見所かもしれません😊

こちらで頂いた御朱印です
御本尊(300円)
確か御本尊である地蔵尊は、秘仏で年一回の御開帳があるそうですが、それは本堂でなく、授与所の隣の玄関(そこからは入れない)とこだったかの奥にあるというようなことを言っておられたと思います(^^ゞ
下の観音さまと逆に覚えているかもですがf(^^;

京都洛西観音霊場(300円)
洛西観音霊場の仏さまは草分観世音と呼ばれるもので、花山法皇が西国三十三番霊場を再興された時、背に負われた観世音を納めたものと言われているそうです
おいづる観音とも呼ばれるもので、西国三十三番霊場詣りの者は一番初めに詣らねばならぬ観世音おされると由緒書きには書かれていました

御詠歌(300円)

由緒書き

もう少しこの辺りのことが続きむす
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ