前回からの続き(2月11日のこと)になります
與能神社の後は、当初は国道423号線に乗って次の式内社へ行く予定でした
どうせ、別院まで行くなら同じと石田梅岩生誕地も寄って行くことにしました
それというのも、石田梅岩は亀岡駅や、道の駅ガレリアかめおかでも見ていたので気になっていたんです😁
なので道は府道407号線(東掛小林線)で南下して行きます
少し走ると、完全な山へ突入
しばらく走ると、村が現れます
そこに道路沿いにグラウンド(東別院町グラウンド)が右手に見えてきました
目的地はその少し先にありました
石田梅岩生誕地
住所・京都府亀岡市東別院町東掛六田16
駐車場 無料のがあり
駐車場は道路沿いにあります
そこにこの石碑もありました
駐車場から見た生誕地側
その建物のとこへ行くと長屋門になっていました
門を抜けた先にある建物
この右手にも個人宅?と思われる住居がありました
門を出たとこには、机と椅子があり、交流の場になっている雰囲気でした
この日は誰もおられませんでしたが😅
門の先にある片隅にも「石田梅岩生誕地」の石碑が
その横が公園になるっているようなので行ってみました
そこにある石田梅岩先生不滅塔の石碑
その辺りから見た公園
解説
石田梅岩翁記念公園
ふるさと亀岡が生んだ偉大な先人、石門心学の祖石田梅岩は、当地亀岡市東別院町東掛の農家の二男として貞享2(1685)年に生まれした。
梅岩は、11歳の時から京都の商家に奉公に出て、一旦帰郷しますが、23歳の時再び京都の商家「黒柳家」に奉公に出ました。実直な奉公の傍ら、寸暇を惜しんで勉学に励み、独学で「人の人たる道」を追求しました。
その教えは、神道・儒教・仏教など様々な分野の知識を取り入れ、体系化したもので、日常生活に立脚した道徳的手本として確立させたものです。
享保14(1729)年に、京都車屋町御池上ルの借家で初めて講席を開きました。講席は、広く一般民衆に呼びかけ、聴講無料、出入り自由、男女が共に学ぶといったもので、当時では型破りなものでした。すなわち、生涯学習実践の先駆的なものといえます。
元文4(1739)年に「都鄙問答」、延享元(1744)年には「倹約斉家論」を刊行しました。
梅岩の教えは、手島堵庵を始め多くの弟子たちに受け継がれ、京都(明倫舎)・大阪(明誠舎)・江戸(参前舎)などを拠点として平易な道話を通じて多くの人々に浸透し、全国に心学講舎が設立されました。亀岡においても天明6(1786)年ころに持養舎が設立されました。現在も当地に開道舎が教えを伝えています。
昭和9(1934)年には石田梅岩先生顕彰会が結成され、昭和39(1964)年には生家の前庭に梅岩公園、記念館が建設され、7月になると梅岩遺愛の孝行蓮が開花します。
また毎年9月24日には、墓前祭が盛大に斎行されます。
(原文のまま)
解説の隣にデカい石灯籠もありました
次回は再び式内社のことに戻ります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ