前回からの続き(12月4日のこと)です
百丸大明神を後にして、一旦駐車場で荷物を下ろし、その近くにあったお寺へ向かいます
本満寺

住所・京都市上京区寺町通り今出川上ル二丁目鶴山町十六番地
正式名称 本願満足寺
御本尊 十界曼陀羅
HP 本満寺
札所 日蓮宗京都八本山
日蓮宗京都十六本山
洛中法華二十一ヶ寺
洛陽十二支妙見めぐり(丑)
本山のはめぐりというより、括りと言った方が正確かもしれません😅
歴史
応永17(1410)年 創立
開山 玉洞妙院日秀上人
日秀上人は、近衛関白左大臣道嗣の嫡子
本圀寺五世・日伝上人について出家得度される
朝廷より敷地3万坪を与えられ、新町今出川に当山の基を開く
天文5年の法難(1536年)によって、伽藍は焼失
天文8(1539)年、第11世日重上人により現在地に移り、関白近衛尚道の外護により再興
後奈良天皇の勅願所となり栄える
こちらから身延山の法主に5名がなられているということです
こちらの13世・日乾上人が能勢(大阪府)の妙見山を開かれたそうで、能勢にこちらと同体の妙見大菩薩が安置されているということです
宝暦元(1751)年、35世日鳳上人が八代将軍・徳川吉宗の当病平癒祈願の効多くあり、それ以降徳川家累代の祈願所となる
(由緒書き参照)
驚いたのは、調べてると本満寺が通称だったということ!
ごくごく普通のお寺の名前だと思っていたら、本願満足寺だったとは

こちらには以前伺っています→本満寺
その時、御首題も頂いているので、御首題はそちらを見てください(..)
本満寺は3回目だったようですので、リンクした先の先になります🙇
なぜ再び訪れたかと言うと、理由は2つ
1つは日蓮聖人降誕800年記念のカードを頂くため
もう1つは、前回叶わなかった山中鹿之介のお墓に参るためでした
寺町通りを少し入ったとこに総門があります

その手前の左側に妙見宮

こちらが洛陽十二支妙見めぐりの場所です
一部(今ならかなり?)で有名ですが、方丈の前に立派な桜があります


お題目が書かれた石碑と山茶花?

七面堂

こちらには十四世日遠上人(身延山22世法主でもある)が身延七面山にて千日の行を修して感得され七面大明神が安置されています
↑のとこに居たニャンコ


逃げずにずっといました( *´艸`)
これ前の記事でも同じようなニャンコが居たので、同一ニャンコかもしれません😁
本堂

前回に御首題は頂いていたので、今回は御朱印を頂くことにしました
そしてその時、前に訪れたときに場所が分からなかった山中鹿之介のお墓の場所を伺いました
実は御朱印を頂く前に探してたのですが、分からず聞いてみたんですf(^^;
そしたら親切に、分からなかったら案内するで言ってくださいとまで言ってくれました🙇
なんとか自力で探せました

山中鹿之介のお墓

場所は、墓場へ入って、真っ直ぐ行くと水汲み場というのかがあって、そのちょい手前を右へ行くとすぐにあります
最初はか〜な〜り墓場をウロウロしてましたけどね🤣
山中鹿之助
鹿之介(助)は通称で、幸盛
1545?〜1578年戦国・安土桃山時代の武将
尼子家の家臣
その昔は尼子氏の勢力は絶大でしたが、この頃には毛利家に押されていました😓
当時の主君・尼子義久が毛利家に降伏すると、東福寺にいた尼子勝久を擁し、挙兵
旧領の出雲を回復する
元亀2(1571)年、毛利家に捕らえられるも脱出
天正元(1573)年、勝久と共に因幡に入る
天正2(1574)年、鳥取城を陥す
天正5(1577)年、秀吉に上月城の守備を命じられる
天正6(1578)年、上月城が毛利家に降伏
鹿之介は投降するも、護送中に殺される
鹿之介で有名なことと言えば、知る人ぞ知る
仲秋の名月に向かって
「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
の言葉
城主とかとは違いますが、男気溢れる武将の1人に間違いはないです

(コンサイス日本人名事典、信長の野望覇王伝事典参照)
この鹿之介、前に特別公開されているとこで霊所を見ました→玉林院
なんで、こんなところに?と思ったら、そのお寺さんが鴻池家と関係があり、その鴻池家は鹿之介の遠縁というようなことでした
こちらで頂いた御朱印(500円)です

では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ