木屋町通り石碑いろいろ・その8(日本映画発祥の地)(本間精一郎遭難の地)他 | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続きです
(令和元年9月28日のことになります)

土佐藩邸跡の石碑を下ると、すぐ元立誠小学校の跡だったのですが、現在は先にも書いたように立誠ガーデンヒューリック京都というのになっているようです
この時はまだ工事中でした(^^;

その前には石碑でなく、駒札がありました
日本映画発祥の地
 当地は明治30(1897)年、実業家であり、後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑勝太郎(いなばたかつたろう・1862~1949)が日本で初めて映画(シネマトグラフ)の試写実験に成功した場所である。
 明治29(1896)年、万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は、フランス留学時の級友リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)と、その興行権、フィルムを購入し、リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコンスタン・ジレルを伴って帰国した。そして翌明治30年1月下旬から2月上旬にかけての雪降る夜、京都電燈株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地)で国内初の映画の試写実験に成功した。
 映画の上陸は、単にヨーロッパ文化や最新技術を日本に伝えただけでなく、人・もの・事物を記録し伝える映像メディアの始まりであり、新しい娯楽・芸術産業の始まりでもあった。この地を起点にした日本映画は二十世紀を代表する国民娯楽に成長していった。
(文面のまま)

更に下って行くと八之舟入址
中京区木屋町通紙屋橋上る西側

八之舟入址の石碑の前にある建物にも石碑がありました

本間精一郎遭難之地
住所・中京区木屋町通四条上る東側
このことについては違う場所に駒札があったので、その駒札のあったとこで書きます

その隣の家(店?)のとこにも石碑がありました
井筒屋継承の地田村佐起三生誕の地
田村佐起三は先にも出てますが、ちりめん洋服を考案した人物です
井筒屋継承の地というのは、井筒屋というのが田村家の屋号だそうで、その継承の地ということになりそうです
その井筒屋は、現在ではさきぞうグループとして
ちりめん洋服メーカーも継承しつつ
ホールディングスとして、不動産、ホテル業などを行っていかれてるようです
そこから少し下った紙屋橋のとこに先ほどあった石碑の本間精一郎遭難地の駒札がありました

 文久2(1862)年閏8月20日夜、勤王の志士・本間精一郎はここで襲われた。
 精一郎は越後(現在の新潟県)に生まれ、文武両道に秀で弁舌も巧みで、友人も多かったという。江戸に出て遊学し、安政の大獄の後、京の都に上って尊王攘夷活動に身を投じた。特定の藩に属さなかったため、自由に行動することができ、公卿にも接触を図り、長州や薩摩、土佐の藩士にも遊説をし、尊王攘夷思想の急先鋒とされていた。
 しかしその活動は伏見「寺田屋事件」で封じられ、精一郎はその頃から酒色におぼれ、仲間にも罵声を浴びせるようになり、同士からも次第に嫌われるようになったという。
 この夜、先斗町三条の料亭で遊び、四条の料理屋を出た帰り道を精一郎は襲われた。この南側の路地を木屋町へ逃げようとしたが、前から二人、後ろから六人にはさみ討ちされ惨殺された。襲った八人の中には薩摩藩の田中新兵衛や土佐藩の岡田以蔵もいたという。本間精一郎、時に二十九歳であった。
(文面のまま)

別のとこにもあったさきぞう創業の地の石碑爆笑

これは蕎麦屋さんだかの前にあった道標

そして舟入最後の場所・九之舟入址の石碑
住所・中京区木屋町通四条上る西側

次もまだ歴史関係となりますf(^ー^;
よかったらお付き合いください(..)
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ