以仁王の伝説がある神社(里宮高倉神社)(多田八幡宮) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

今回も綾部市のことになります
前回からの御手槻神社からで言うと、前の道を道なりに行くと、府道77号号線(綾部インター線)に出ます
これは右折すると「あやべグンゼスクエア」の横を走る道になります
府道77号線を左折して、次の脇道を左折すると右手に神社があります
里宮高倉神社
住所・京都府綾部市里町向屋敷34
御祭神 以仁王
駐車場あり

由緒略記
 この社は、人皇七十七代後白河天皇の第二皇子高倉の宮以仁王がお祀りしてあります。
 治承4(1180)年源三位頼政は驕暴を極める平氏追討のため以仁王を奉じて挙兵し治承の乱となりました。宇治の激戦において官軍に利あらず敗戦となり、頼政は平等院において戦死しました。官は焦眉の危難を避け12名の武将とともに頼政の所領であった丹波の国吉美郷へ落ち延びて来られました。
 時恰(あたか)も、田植の最中の6月9日、由良川の白瀬を渡り里へ辿り着かれた宮を迎え、里人たちは清水を汲んで来て宮の矢疵を洗い、汗をぬぐい介護し奉るとともに、笛、太鼓を打ち鳴らして田楽踊りを踊りおもてなしをしました。宮も大へんおよろこびになり、「イヤソー、イヤソー」と踊りをはやし立てられたといいます。
 然し、十二士や里人たちの心からなる介護もむなしく、矢疵は痛みを増し、御年30歳であえなく他界されることになりました。
 「あま雲の かかる位 山晴れもせず 高嶺あらしに 散るぞかなしき」の辞世があります。御遺体は里の宮地に懇に葬り、この地に霊廟を建てて祭祀されました。その後、養和元(1181)年9月9日奥ノ谷ノ森、高峯(現在の高倉町)に社を建立してお遷しし、高倉天一大明神として奉斉されました。この里宮は宮の御最期の地であり、元宮でもあります。
 江戸時代には、山家藩より奉行が立ち祭礼を出仕執行することを慣例として来ました。当日、御神輿は高倉より、この里宮へ吉美地内の各社がお供して渡御になり、祭礼が行われ、宮前の桜並木の馬場で武者行列、流鏑馬の神事もあり、また若者が腰太鼓、横笛、編竹の三種を用い「ひやそ」と称する田楽踊りを奉納して来ました。この「ひやそ」は宮の囃言葉「イヤソー」から来ていると言われています。矢疵を洗い、お疲れを癒したと伝えられる清水は、社の東北約150米の所に今も絶えることなく涌き出ております。
 宮が矢疵の腹痛でお悩みのとき「私が天界へ行ったなら、このような腹痛の苦しみを後世の万民が味わうことのないよう救い守護しよう」と仰せられました。以来御神徳は四方に輝きわたり、はらいたの神様として、また世直しの神、五穀豊穣、安産、万病平癒の神として、霊験あらたかなるを伝え崇敬を集めて来られました。
 里宮高倉神社
(原文のまま、一部年号補足)
やはり以仁王と言えば、今ではこの方ですね⁉
(NHKTwitterより)
(*´艸`*)

本殿
凄い伝承がありますが、小さな神社です照れ
ここは由緒にもあるように、元宮になるので本宮もあります
以前にそちらも行っています→高倉神社 

ちなみに、この前の通りは桜が咲く時期は桜並木で見事な参道となりますおねがい

こちらの近くには以前紹介したお寺さんもあります→佛南寺 


続いて、再び府道74号線へ戻り北上
有岡」の信号で右折
しばらく行って左折
すると村の中の右側に神社があります
多田八幡神社
住所・京都府綾部市多田町前路

本殿と右手に境内社
ネットで調べてましたが、ネットにも情報はありませんでした💦

この近くには国指定史跡になっている古墳があります→聖塚古墳・菖蒲塚古墳 


次回は再びの高倉神社のことになります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ