丹波国神社(式内社)めぐり-福知山市-(生野神社) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

今回も引き続き福知山市の神社のことです
生野天神社から福知山方面へ向かい、国道9号線をまたいで反対側へ行きます
すると左手に神社らしきものが見えるのでそこです
今回も何回分かの画像が混在しています(..)
生野神社

住所・京都府福知山市三俣531
旧社格 村社 式内社 御幣社
御祭神 天鈿女命
御神徳 商売繫盛 家内安全 学業成就 芸能上達 交通安全
駐車場あり
見所 中井権次一統の彫刻
 
 
鳥居社号標

 
由緒
 式内社とは、延長5(928)年藤原忠平によって調査され、延喜式目に選上登録された中央政府にも相当名の知られた神社のことで、当市内に四座ある。
 祭神は、天鈿女命で平和な舞踊や音楽を愛好されると共に、九州から伊勢まで男神を無事送り届けられたという勇ましい女神様でもある。
 徳川時代の参勤交代には、当地方の領主綾部藩の九鬼氏をはじめ、福知山、舞鶴、宮津、峰山、豊岡、和田山等の大名が行列美々しく此の道を通る時は、必ず参拝して長途旅行の安全を祈願し、神前の榊の枝葉を戴いて御守とし、帰途これを返納したので以来、旅行、出張、転勤外遊等の生活と道中安全の神様として有名である。
 社殿は慶長年間(1600)関ヶ原の戦の頃、社殿の改築があり、更に元禄年間(1700)忠臣蔵討入の頃、神祀管領より正一位を授けられているが社殿は後の山上にあった。
明治6(1873)年生野神社と改称、昭和4(1929)年拝殿新築、昭和8(1933)年社務所を建てた。
 御弊神社 鎌倉時代(1200)から江戸末期(1800)までは、みてぐらはんと称えていた。これは、綾部藩主九鬼氏が生野に倉庫を建て上納米を取立てていたが、毎年当神社へ御供米を奉献していたので、御弊(みてぐら)と呼ぶようになったという。
 祭日は春季大祭4月11日で、子供相撲や、剣道大会が奉納され、秋季大祭は10月10日で市内随一の、重量1125キロで、80人の氏子が奉仕する金色燦然たる御神輿と、子供樽御神輿や御弊太鼓三基が綾部藩奉納の武具行列と共に、勇壮な奴毛槍道中が繰りひろげられるのも名高い。
 氏子は三俣、池田、堀越、正後寺、板室の約250戸で、全地域を御神輿が巡行し、各区の御旅所で休憩するが、江戸中期には、下六人部学区の多保市の西和田ノ前という所に6メートル四方位の岩塚があり、その附近が、中六人部学区の一宮神社の御神輿と、上六人部学区の御弊神社の御神輿と、立会祭礼の御旅所であったともいう。
 御加護 いづれにしても、地域社会の発展と商売繁盛、家内安全、学業成就、歌舞音曲の上達や旅行道中交通安全の神様として、御加護はすばらしいものがある。
(原文のまま)
こちらは天田郡にある式内社・4座のうちの1つです

鳥居をくぐって左側に手水舎
 
鳥居をくぐって見える景色

狛犬
 
明治37(1904)年
 
拝殿建築記念碑

最初に見たケヤキ

近づくと根本が空洞になってます

福知山の名木(41)ケヤキ
樹高 29m
胸高周囲 5.33cm

 
本殿近くの狛犬
久しぶりに愛嬌があるものですラブ
なので別の角度からも爆  笑
 
 
こちらは明治24(1891)年
 このタイプのものはたいてい威嚇してるかのように獰猛な感じのものが多いのに、こんな可愛らしい感じのものは初めて見ました爆笑

拝殿
 
その彫刻




拝殿・右横

拝殿・左横
拝殿の横の彫刻には、両方虎が配置されています

拝殿・裏側

 
本殿・右側

右側・妻飾り

右側・横飾り


本殿・左側
 
左側・妻飾り

左側・横飾り

拝殿・本殿


境内社
 
 
鳥居くぐった右手側
 
そちらには福知山の名木(52)フジキもありました

ただ今年には切られていましたびっくり
何があったんやぁwwガーン

福知山市のことはまだしばらく続きますえー
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ