前回からの続きです
天道神社を後にして、しばらくは石碑ばかり(笑)
なので今回は次の神社とこまでの石碑シリーズとなります( ̄∇ ̄*)ゞ
天道神社から猪熊通りを北上(上がって)して、一旦四条通りへ
東へ移動して、今度は次の通りを南下(下り)します
すると板張りの塀が目に飛び込んできました

フランシスカチャペル

場所・京都市下京区佐竹町390
この付近一帯はかつて妙満寺の地所
フィリピン総督の使節として来日したスペイン人・フランシスコ会司祭ペトロ・バブチスタは豊臣秀吉に謁見し、この地を拝領しました
文禄3(1594)年、教会堂と修道院、2つの施療院を建てました
しかし慶長2(1597)年、サン・フェリペ号事件をきっかけにフランシスコ会関係者や日本人信徒など26名が長崎で磔にされてしまいました
これが日本最初のキリスト教殉教者です
26人は1862年にローマ教皇によってカトリック教会の聖人と宣言されたそうです
前にあった石灯籠


そこから下ってすぐのとこに妙満寺跡二十六聖人発祥之地という先ほどと関係ある石碑がありました

その通りを望む

一筋ずれると堀川通り
下っていって、松原通りと交わる辺りに祠があります
北来(ほくらい)地蔵菩薩

駒札

詳しい由来は駒札の解説に譲るとして、北来と言うのは北門前町と来迎堂町の頭文字をとってつけられたものだそうです
そのどちらの地名もお寺に関係したものというのが京都らしい話でした
( *´艸`)
こちらに両町がお祀りされてた地蔵菩薩が一緒に祀られてるそうです

そこから南下すると、黒門通りのとこに大きな石碑が

石碑にはお題目が書かれてあり、後ろには本國寺と書かれてありました
駒札

この辺りが本國寺跡(押して貰うとリンクします)だそうで、その本國寺は江戸時代、日本が朝鮮国から招いた朝鮮通信使は京都で滞在しました
そのうち本國寺は寛永13(1636)年以来定宿とされ、七回にわたり、一行約四百名の宿館として用いられました


そこを下ったら堀川五条

お馴染みの広い交差点となります

歩道橋から五条通り(東側)を見たとこ

歩道橋を降りた近くのビルのとこにこんなものがありました

佐女牛井(さめがい)

先に書いたように本当の左女牛井は無くなってますが、こちらのは地下60mから汲み上げられ、佐女牛井と同系の地下水なんだそうです
解説にも書かれてるように、手前の通りは醒ヶ井通り
その通りの沿いには佐女牛井町、泉水町、小泉町の名前が残っています

五条通りを東へ進み、油小路通りを上ると左手に山本亡羊読書室旧蹟の石碑があります

山本亡羊(やまもとぼうよう)
1778~1859年
京都の本草学者
本草学というのは植物学のこと
この地は父・封山が西本願寺の学問所の一宇(読書室)を賜ったもの
そこに薬草園を備えた学校を開き、門弟の養成にあたりました
蛤御門の変(1864年)に焼失したため、今のは再建
珍しく解説(文字)が多い記事となりました(笑)
寺社のときの方が書くの楽だなぁ

紙芝居みたいな記事だから(爆)
次回はそんな神社の記事となります
今日はほんとは稲刈りの手伝いの日だったのですが、雨予報だった(実際昨晩から降ってます)ので、昨日に済まされ今年の稲刈りの手伝いは無くなりました
明日から親父とこ行ってくるので、今日はおとなしくしてます(笑)
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ