感性の時代 | ■■■現役商社マン/武浪猛の商社マン流人生指南■■■     若き血に燃ゆる者たちへ!

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このままじゃ、日本国は滅亡の国家に成り果てる。 世界の中で揉まれてきたオレは、オレ流の武士道というものを育んで来た。オレの言葉が、少しでも君ら若者の心に刺さればと思って、オレはこのサイトを立ち上げた。 さぁ、この国を元気にしようじゃないか。

オレとしては正論を書いたつもりだが、意外にも落書きのエントリーについて好意的な反響が大きいようだ。反響が多いどころか多くの方にメール、メッセージを貰った。

ややスローな更新速度にも関わらず、毎日多くのアクセスやメッセージをありがとう。


そんな中、俺の地元九州で学校の中学校の教諭をやっている35歳の先生からメールを頂いた。ちなみに俺の母校と近い。そろそろセミが鳴きだすころだろうか?

そのメッセージを紹介したい。

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武浪様

いつも楽しく拝見させていただいています。武浪様の故郷でもある九州で私立中学の2年生の担任と英語を教えているものです。


実は、ホームルームの時間を使って、先日の落書きのニュースについてクラスでディスカッションをしたのですが、最初は「落書きしたら罰を受けて当然」と言う優等生的な主張が目立ったものの、勝手ではありますが「世界中を飛び回るプロフェッショナルの意見」として武浪様のBlog記事の内容を紹介したところ、生徒達も大変、感動した様子でした。思い遣りのある大人がいてくれることが心強かったようです。


ただ、私が生徒達に「では、そもそもなんで落書きはしたらダメなんだろう?」と問い掛けたところ、皆、口を閉ざしてしまい、なかなか意見が出てきませんでした。


生徒には「すぐに正解を求めるな。とことん考え抜け」と言っている私が、こんなことを他人にお伺いしては教師失格と思われるかもしれませんが、もし武浪様であれば上の質問に何と答えますか?


同郷の者達に指針となる言葉を頂ければ幸いです。東京も蒸し暑い日々かと思いますので、どうかお体に気をつけて頑張ってください。Blog更新を生徒共々心待ちにしています!
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九州からのメッセージと言うことで、思わず契約書のチェックも後回しにして、こうやってBlogを書いている(笑)。


時事テーマについて若い時からディスカッションをすると言うのは、数学や国語を教科書で学ぶよりも間違いなく社会に出てから役立つだろう。数学や国語が無駄と言っているわけではない。しっかり学べば、論理的思考力や表現力を学ぶ良い機会に違いない。だが、教科書をとりあえず頭に詰め込むと言う教え方や学習法が大半だろ?こんな学習では、社会に出てからほとんど役立たないし、まして海外ではまったく通用しないことを俺は断言しておこう。



さて、「なぜ落書きをしてはダメなのか?」と言う問いだが、なかなか難しい。いやこう言うシンプルでイノセントな問いの方が難しいもんだ(笑)。



今の中学生らが小利口で「アンコールワットにも江戸時代の日本人武士が親への供養の言葉を「落書き」した跡があるし、古代エジプトだって落書きの形跡がある。これらは今や貴重な歴史的価値のある「落書き」ではないか。落書きをして何が悪い?」と反論されたら、オレでも一瞬、答えに窮するな(笑)。(ちなみに、アンコールワットの落書きは見たことがあるが、はっきりと大きく書かれてあって、目立つ。それが今ではナント観光名所になっているのだが)。



やや精神論になってしまい説得力に欠けるのはわかっているが、俺のかつての経験を紹介しよう。



その昔、ケルンというドイツの街に出張したことがあった。そこはフランクフルトから電車で1時間で、ライン川沿いの街なのだが、駅を降りて目の前に有名な大聖堂がある。大聖堂の周りに繁華街(といってもビアホールみたいなものだが)がたくさんあり、みんな店の前に並べられたアウトドアの席でビール片手にソーセージを食べながら大聖堂を愛でるという生活をしている。言ってみれば、当時は大変のどかな街だった(最近は行っていないが)。



その大聖堂というのがゴシック様式の荘厳な大聖堂で(わからない人はネットで探してみてくれ)、中に無料で入れるんだが、ステンドグラスが美しい本当厳かな気分になる空間だった。オレが行ったときはミサが開かれていて、高いところにあるパイプオルガンからは賛美歌が流れていた。奥には大理石でできた騎士の墓があり、オレには詳しい意味はドイツ語でわからなかったが、どうやら十字軍遠征で亡くなった方の墓になっているようだ。


これが13世紀に立てられたんだから、人間の偉大さというものを感じざるを得ないな。そういう人間の英知が結集された歴史的建造物というのものはどこか荘厳さ、厳粛さとともに、当時作った人たちの情熱と信仰心の厚さを感じ、オレは一種の畏怖の念を抱いたものだ。


そして、そんな"場所"に落書きをしても良いと堂々と主張できるのであれば、オレに言わせれば情操教育の失敗としか言いようがない。


確かサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も、ある女性と20数年前ごろに行ったことがあるのだが、ケルンで感じた、人間の偉大さへの一種の恐怖感にも似た感覚を感じ、オレは鳥肌が立ったのを今でも覚えている。


そんなところに落書きをしようなんて、オレは、恐れ多くてできなかったし、そもそも考えもしなかった。思い出してみれば壁にたくさんの落書きはあった気がするが、少なくともオレは、そこに名前を残そうと言う感覚すらならなかったんだ(自分で関わったプロジェクトの橋にはサインしてしまったが、笑)。


そう、オレを落書きに至らせなかったのは、悪いことだから止めておこうと言う次元の話ではなく、ただただ目の前の歴史的建築物に圧倒される感受性があったからだと言えるだろう。


この質問をくれた先生に言いたいのは、ディスカッションは大いに結構だが、生徒らにはどうか言葉の奥底には感受性や価値観をひっくるめた自分の人間性が存在しなければならないことを徹底して教えてあげて欲しい。上辺だけの論理ほど薄っぺらいものは無いんだ


それでも、ついつい変に理屈っぽくなる子供については、黙って人類の創造的才能を表現する傑作に連れて行くとか、彼に好きな画をインターネットで見つけてもらうとかすればよいだろう。そして、それらに触れることで、何を感じるのかということを語りかけてみてはどうだろう。もちろん、深い森でも、綺麗な川辺でも広い海でもよい。そこにはロジックではない、美しさ、雄大さを感じるだろう。そしてその感覚を大切にすることを教えてやるべきだ。



翻ってみれば、我々大人も、小手先の言葉や組織の論理に依存して、深い感性を失ってないだろうか?そう言う意味では、前回、書いた日本の学校機関、マスコミの姿勢とは、まったく人間的な感性の無い、組織の論理を優先した態度だ。こんな大人や社会を見ていて、子供は、ますます未来に希望を持たなくなってしまうんじゃないだろうか。


世の中、所詮は人間の知恵であるロジックだけでは説明できないもののほうが多いし、それが大事だと俺は信じている。


意見を言わない、冷めた若者が多いと聞くが、その中で積極的なディスカッションに取り組むのは、生徒達にとって素晴らしい経験になることは間違いない。さらに、ぜひその経験を通じて論理以外の"情理"をも学ぶ機会になることを、故郷を思い出しつつ、東京いや世界のどこかから祈っている。


オレなりの戯言が、先生の教育の一助になればと心から願う。


T2