『 古武雄(こだけお)』 のはじまり

 

 

古武雄の美術的な評価は、民芸において最初に評価された柳宗悦らによる昭和初期の民芸運動により、民衆的な工芸が着目され、古武雄の大鉢は民衆的なエネルギーの満ち溢れた傑作として高く評価されました。

 



古武雄には17世紀の象嵌文様など民芸のイメージとは程遠い緻密なものがあり、また鉄絵緑彩の作品も年代や製品によってその質には大きな幅がある。

古武雄の隆盛が桃山・江戸初期よりも寛永期(1624年から1644年)以降にあること、幕末明治期の作品が代表的な作風と誤認され制作年代が全般に新しいとみなされてきたこと、比較的茶陶が少ないこと、美術史上民芸として片づけられたことなどの経緯により、雑器として低く見られてきた。

古武雄の歴史的な研究と位置づけは始まったばかりであり、日本の陶磁史の中で顕著な様式を打ち立てた分野として再評価されるべきである。

 

 

武雄領の陶器、『古武雄』が江戸期にどのような名称で呼ばれたかは明らかではないが、享和2(1802年)に書かれた『筑紫紀行』によれば弓野(武雄市西川登町大字小田字)で生産された焼物を著者の菱屋平七は「弓野焼」と表示しながら「唐津焼」の中に分類している。

 

 

江戸時代の武雄地区は武雄鍋島家を領主とし佐賀藩鍋島本家の家臣でありながら自治を認められていた地区である。

武雄鍋島家はもともと後藤姓であり、後藤家20代領主・後藤家信(15631622年)は肥前の戦国大名龍造寺隆信の三男で後藤家の養子となった人物である。
後藤家信は鍋島直茂にしたがって文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)に出陣している。慶長の役では病となって帰国したため、息子の茂綱が代わりに参戦した。

この文禄・慶長の役に際して、朝鮮からの帰国時に陶工を連れ去ったとされる。

これらについての資料はほとんどないが武雄市の内田地区や黒牟田地区に残る高麗墓や、武雄の陶祖とされる深海宗伝(新太郎)の妻百婆仙の墓碑文などから朝鮮陶工の移入が推察される。

 



武雄へ入った朝鮮陶工団の長、深海宗伝は文禄初(1592)に武雄に連れてこられ、広福寺の門前でしばらく暮らし、やがて内田村で陶器を焼くようになりました。また、近くで採れる陶石を使って磁器作りも試みました。作った茶碗と香炉を領主後藤家信と広福寺の別宗和尚に捧げています。宗伝が作った焼き物は「新太郎焼」とも呼ばれました。これが、武雄系唐津焼、『古武雄』の始まりとされています。

 

 

1600年頃の初期の古窯跡として錆谷窯、祥古谷窯、李祥古場窯、古屋敷窯、小峠窯、宇土谷1号窯などがあり、これらは内田を含む武内町大字真手野地区に集中しています。この北部系に対し、同じ頃に絵唐津を多く生産した東川登町の小山路窯(内田皿屋窯)は南部に位置しています。

 



陶工深海宗伝は武雄焼の基礎を作った人と言えますが、没後の内田地区の窯業がどうだったか記録で確かめることができません。宗伝の死後、良質の陶石を求め、妻百婆仙は一族を連れて有田稗古場に移動しました。しかし窯跡があり、発掘調査によって出土した陶片から宗伝亡き後も武雄に残った陶工たちは内田地区を中心として陶器作りを続け、武雄の陶業は継続して発展したことがわかります。

 



武雄の内田皿山窯(小山路窯)や小峠窯などでは絵唐津の製品をたくさん焼いています。有田焼が始まった時に唐津藩の唐津焼は急激に衰退しましたが、同様に陶器を主体に生産していた武雄焼は唐津焼のような衰退はしませんでした。武雄焼は1630年代ごろから次々に新製品の開発をしたからです。

 


古武雄は多彩な文様表現に魅力があります。

古武雄の作品で基本的におこなわれる装飾技法の基本は、褐色の胎土の上を白く塗ることに大きな進歩がありました。この白いキャンパスを得られたことにより褐色の胎土という、絵付けにはある意味で言えば不利な条件を克服し、新たな文様表現の土台を得ました。

そして、そこに緑や褐色で絵を描いたり(鉄絵緑彩)、緑や褐色の釉をかけ流して文様にしたり(緑褐釉・緑褐彩)、スタンプで文様を押し、その部分に白い土を埋める象嵌(印花・三島)、白い土を刷毛で打ち付ける文様(打ち刷毛目)などなど多彩な文様が生み出されました。

このような多彩な文様こそ「古武雄」の見所となっています。褐色の生地に白い化粧土を塗り、その上から鉄釉のほかに緑釉を駆使して色調も革新しました。絵唐津には白い化粧土は用いられていませんが、武雄焼は白い化粧土を使うことでより白い素地を作り、また刷毛目による装飾や象嵌による白い文様を表現しました。

 


 

この武雄焼は江戸時代前期から19世紀にかけて佐賀県西部で誕生した陶器なのですが、その美術的な価値については正当な評価がなされてきませんでした。近年で東南アジアでも出土し、輸出されていたことが分かり、その重要性が再認識されています。また、その豪快な筆使いの魅力と釉をかけ流しただけの斬新な文様が、現代アートにも通ずると再評価されています。

 


 

武雄に住む陶工たちが適した土を求め大地を掘り、様々な陶磁器を生み出してきた。青磁の重要無形文化財保持者(人間国宝)であった故・中島宏は、自分自身の作陶に精進するとともに、陶磁器の研究と収集を行っていました。とりわけ、生まれ育った武雄市弓野地区をはじめとする武雄地域の陶器収集には、ひとかたならぬ熱意と愛情を持って取り組み、かつては「二彩唐津」「武雄唐津」「弓野」「二川」などと呼ばれていたその収集品を「古武雄(こだけお)」と称して図録を刊行、展覧会などで発表し、

中島宏氏により『古武雄』の名前が新たに付けられたのです。