先週末~今週初め、無重力着付けの再受講を受けてきました。
無重力着付けは、ホントなんていうか、
着付け教室であって、着付け教室ではない。
「着物を見た目キレイに着る」という表面的なことにはフォーカスしていないの。
着付け教室なのに。
無重力着付け以外の着付けを習ったことのある受講生の方の口から、
「以前"普通”の着付け習ってたんだけど・・・」なんていうセリフが出てくる。
普通の着付けって?
普通じゃない着付けって何それ?て感じなのですがw
でも、でも、
千衣先生の話を聞いてると、
無重力着付けこそが、本来の“普通"なんだと思うし、
そして、これが"普通”と感じれなくなっている私達日本人がヤバい。のだと思う。
日本人なのに、日本の服の和服が着れない。。。
とにかく、千衣先生のお話は、学びが深すぎて深すぎて・・・
聞いてパッと理解できるようなレベルの話じゃないんだけど、、、
頭で理解できなくても、
「着物を着る」ということを通すと、腑に落ちるのです。
これが、ホントすごい。
頭での理解ではなく、身体で体感するから、理解の深さが全然違う。
だからいわゆる"普通”の着付けだと、なかなか家に帰ってきてから一人で着れる、という状態にならないらしいのだけど、
私は、無重力着付けclass1[暮らし着物]、class2[おでかけ着物](2日間)、class3[よそゆき着物](2日間)の、計5日間の受講だけで、1人でよそゆき着物(袋帯)まで着れるようになったし、
朝ササッと(?!)よそゆきの洋服を着るのと同じように、自分一人で、よそゆき着物を着て、子どもの入学式や七五三に着物で行くことが出来た。
今回、千衣先生が、
「ホント今やねん。今やらないと、と思う。今着物を着ないと“日本"が終わると思う。」と言っていたのが印象的だったのだけど、
(もしかしたら、こんな強烈な言い方はしてなかったかもだけど、私には、このままでは「日本が終わる」て言ってたように聞こえたw)
これは、着物文化が終わるとか、そんな表面的な話ではなくて。
ちょっと着付けからは話が離れるかもしれないけど、
星読みでも、今、時代の転換期。
昨年から、「地の時代から風の時代に移行した」とかということを
耳にしたことがある人は多いと思うけど、
星がどうとか、なんだか難しいことはわからなくても、
要するに、今は時代の変換期であって、今までの価値観がガラっと変わっていくときだということ。
千衣先生は、上記発言は、「なんの根拠もないけど、“肌感覚で”“野生の勘で”そう感じてると言ってたけど、
同じように、今、いろいろなことの転換期だな、と感じている人は多いと思う。
・・・というか、感じてるだけでなく、
コロナでいろいろなことを変えていかざるを得ないし、
それが世界的な規模で起こっているし。
今までとは違う生き方を模索することを、強制的にやらざるを得ない状況になってる。
ここで、流れに乗ってスムーズに転換していける人と、
取り残されて苦しい感じになっちゃう人とに分かれてしまう、
そういう岐路に立たされているのかもしれない。
みんなで一緒に仲良く手を繋いで行きましょうよ~。
ではなく、
それぞれみんな自分のことは自分で決めて、自分でやっていこうぜ。
良くも悪くも、クールで乾いている風。
今までの自分、今までのやり方を振り返って、
これからは、どれが通用して、どれが通用しないか
過去に成功していても、もう通用しないものはキッパリと捨て、これからのやり方を模索し、決めていく。
過去を振り返って、
“やり方"を見つめるというよりは、そもそも自分はどうしたいの?何をしたいの?という原点を見つめ直す。
原点回帰をするとき。
“やり方"て状況によって、その時々、流動的に最適なものて変わってくると思うのです。
地の時代は、みんなで一緒に仲良く同じようにやっていこうぜ。だったから、
みんなが同じように出来るように、いろんなものがマニュアル化されていって、そこから外れることを良しとはしない風潮があった。
けど、逆に、"自分”がなくても、そのマニュアルに乗っちゃえばなんとかなった。
そのマニュアルが通用しなくなっちゃったら?
放り出されて、どうしたらいいかわからなくなっちゃってる人も多いと思う。
文化なども、受け継がれながら発展してきていくうちに、統計化されたり体系化されながら、少しずつ改良されて、時代にあったものに変わっていくのだと思うけど、
それは、いつの間にか元々のものとは、ちょっと違う物になっている。
着物も、みんなが着やすいように、着崩れないように、と、
様々な便利グッツがあるけれども…
見た目だけにフォーカスしちゃうと、元々大事にしてきた部分が蔑ろになってたりする。
本来は、表面的な見た目だけにフォーカスしたものではなくて、
身体を守るものだったり、まとって心地良いものだったはず。
動く時にも、動作を妨げるものではなかったはずだし、むしろ自分達がよくする動きが楽にできるようなものだったはず。
根本の基礎、基本的な概念があって、その上で、
そこからの発展や、応用があるわけで、
発展したものだけや、応用バージョンのみしか知らない場合、
もう完全に別物になってる可能性はある。
私は、今までずっと、日本人て、「地」の特性かな~て思ってた。
真面目にコツコツと。とか、、、
規律正しく、とか、、、
礼節を重んじるとか、、、
自分と同じような人達でかたまって、自分と違うものを受けつけない。みたいな排他的なところがあったりとか、、、
良い部分も悪い部分も含め。
今回、千衣先生の話聞いてて思ったのは、
日本人て、本来は「風」なんだな~と。。。
吹いてどっか飛んでいって帰ってこない風ではなくて、
地にしっかり足つけて。
地にしっかり根をはって。
でも、ふわふわと漂って、どこにでも行けるし、どんな風にもなれる。
強い風、弱い風。
一定ではなく、その時々で様々。流動的でしなやかで。
どんなものもフワッと受け止め包みこむ。
自分も自由だし、周りの人にも寛容で自由。
でも根はしっかり張ってるからどっか行ってしまったり、
自由に変化はするのだけど周りに感化されて違うものになってしまうのではなく、自分の軸はしっかり。
私は私。あなたはあなた。
たなびいてるけど、しっかり地面に根は張ってるから不安定感はなくて、安定してるから余裕があって、自分と違うものも受け入れる懐の広さもある。
時には同じようにもなるし、時には別々に同じ場に存在する。
それが、いつからか、どうしてなのか、形にこだわり見た目にこだわるばかりに自由に風であること、
寛容であることは奪われていってしまって、
地面に囚われてるだけになっちゃって、窮屈な世の中になってしまったのかなぁ、と。。。
和服て、一枚の布。
その布を身体に纏うわけだけども、
長さとかサイズは違っても、形はみんな同じ。
でも、みんな同じ着姿にはならないの。
自分の身体の使い方。
自分の着方で、着姿が変わる。
洋服て、同じ服は誰が着ても同じ形になるけど(似合う似合わないとは別の話です)
着物は、同じ物を着ていても、着姿は同じ形にならない。
なんなら、同じ人が同じ着物を着ても、
今日と明日と明後日は、全部同じ着姿になるとは限らない。
着る時の自分の身体の使い方で、できあがりが変わる。
自分のココロもカラダも、日々流動的に変化してるわけで、、、
今日と明日という日替わりどころか、
朝と夜と、一日の中でも変化があるわけです。
でも、それで良くて、「キレイに見えるように着る」必要もなく、
キレイに着ようと思ったって、キレイに着れるような身体の使い方ができないんだから、そもそもやろうと思っても無理。
本来は、それで良い。
どんな着姿も受け入れるし、許されるという文化が日本だったのだと思うし、そういう日本人が着ていた服が和服なのだと思う。
いつでも同じように、を目指すなら、
洋服のような服の方が、
朝着ても、夜着ても、今日着ても、明日着ても、
体調が悪い日も、体調が良い日も、
同じ見た目、同じ形に着れるわけです。
洋服がダメっていってるわけではなく、
怒りながら着るのと、穏やかな気持ちで着るのとでは、
同じ物を着ても、着姿が変わる。
そんな服を着ていた人達がいたのが日本。
日本はそういう文化だったから、そういう服である和服をみんな着ていた。
整った着姿にするために、"自分のカラダやココロ"が整っていないと、やろうと思っても出来ないのです。
だから着姿を整えるのではなく、自分を整える。
日本人は精神性が高いとか、芯があるとか言うけれども、果たして今の日本人はそうなのか?
そして、昔の精神性の高い日本人は、何か特別なことをしていたわけではなくて、
日々、着物を着ていた。
それだけなのかもしれないな~。
着物文化と共に、失われていっているのは、もっともっと深い大切なものなのかもしれない。
無重力着付けのスゴいところは、
何かのイベントの時に着る特別な着物ではなくて、
日々毎日の日常で着物を着ようよ。と提案してるところ。
きちんと着れてるかどうかチェックするのに、寝転んでみたりする。
それで心地よいかどうかが、ちゃんと着れてるかどうかの判断になる。
着付け教室で、まさかそんなことするなんてて思うよね(笑)
着物を「キレイに着よう」と思っても、キレイには着れなくて、
なんだかおかしいところを、
なんとか誤魔化して辻褄合わせようとして、取り繕っても、
しょせん中身は整っていない。
ありのままの自分を認めよう。とか、
ありのままの自分で良い。とか、
今、みんな言ってるけど、、、
見た目を取り繕ってるということは、ありのままの自分を隠してるということ。
ありのままの自分が着姿にでてしまう和服。
着姿で、今どんな自分なのかがわかってしまう和服。
整った自分じゃないとキレイに着れない和服。
でも、整ってなくて、どこかに偏りがあっても、
それが着姿にでてても、それが今のありのままの自分だから、
それで良いのだ。という和服。
今、一般的に認知されている「着物を着る」は、
外からキレイに見えるために、取り繕える様々な補助グッツがあって、着崩れないようにガッチガチに固めて・・・
でも、見目を重視するあまり、内の自分は、
着心地が悪かったり、苦しかったり、我慢が必要で、、、
無重力着付けは、自分の身体をどう使えるかが着姿に如実に表れるのだけど、、、
だから、キレイに着ようと思って着姿をチェックしながら着るのではなく、
自分の身体がどう動かせてるか、どう使えてるか?を、意識しながら着たら、
結果、キレイに着れる。
着る時、鏡見ないの。
頼るのは、自分の感覚のみ。
身体は曲線だけど、和服は直線。
それでも、ぴったりと身体に沿うし、服に守られてる感覚がある。
布を纏うだけ、紐を締めるだけで、
それが、布の特性を生かして身体に纏われ、
本来あるべきところに巻かれるだけで、
身体を守られてる感じがするし、
身体が気持ち良いし、
だから、疲れないし、苦しくないし、
今まで、着物は苦しもの、と思っていた人にも、ぜひとも試してみてもらいたい、そんな着付けです。
そして、本来の日本人の心も思い出せるって、
なんか、すごいよね。
とても着付け教室のレポとは思えない文になってきた笑
“今”このとき、この転換期に、
私は、星や宇宙や着物に興味がでて、、、
それが全部ほぼ同時期で、
そして、普通の着付けではなく、出会った着付けが“無重力着付け”で。
そして、この投稿をしているのが冬至の日で。
ほんと偶然のようで必然で、
自然の流れで、宇宙の意図なんだろうな~と思う次第です。
無重力着付け、興味がある方はぜひ!
オススメです。