ご主人ではない方の老人。

 

こちらに一瞥もくれずに太々しく吹かす煙草を持つ手の指が……やけに少ない事に気付くのである。まともな長さのは三本しかない。

 

(え…?)

 

テーブルの上に置かれた逆側の手などもっと指が少ない。まともな長さのは2本しかない。僕はその不思議な手の構造をじっくり観察した。詳しく解説すると両手の小指は根元からない。左手の薬指は第二関節からない。中指は第一関節からない。右手の薬指は爪のちょっと下からない。指先だけみたら、もはや「バルタン星人」である。

 

当時の大阪など、まだまだ小指の一つない程度の老人はざらに居た。ところがこの老人は今まで見た中で間違いなく最恐レベルの指の少なさである。そこでご主人が強面のバルタン老人に言い放った。

 

「おぅ、義実ぃ。ワレひとっ風呂浴びたらどや?」

そう言われたバルタン老人は

 

「……おぅ、ほなそうさせてもらぁ」

と言うとスックと立ち上がり、着ていたロングのTシャツを勢い良く脱ぎ飛ばした。

 

こういった戸建ての浴室の前には大抵の場合、脱衣スペースがある。何も居間で脱ぐ必要はないのだ、そこで脱げば良い。それも脱ぎ飛ばしたロンTが天井に届く程の脱ぎっぷりである。

 

そのロンTの下には「待ってました!」とばかりに誰の期待をも絶対に裏切らない、まるでパチンコ屋の看板を上回る程カラフルで凶悪なアートが人体の皮膚そのものに描かれている。しかも首から手首まで殆ど隙間なくである。

 

(痛っ……!)

 

僕は目に痛みを感じた。あまりに酷いものを目の当たりにしたせいだ。下町の銭湯では当たり前にある風景だが、こんなものは民家の居間で見る光景ではないのだ。そしてこんなタイミングで裏側にある車庫のシャッターを叩きながら叫ぶ声が聞こえる。

 

「失礼します!大寺警備ですが!だんじりが通るのでお車どけて下さい!」

老人二人が目を合わせる。

 

「なんや?〇×とこのモン(者)か?」

 

「おぅ……せやの。ほなワシ言うてくるわ」

 

バルタン老人は上半身のアートを隠すことも無くノシノシと家の裏側まで歩いて行き

 

「ガラガラ!バシャん!」と勢いよくシャッターを開ける音が聞こえるが早いか

 

「なんじゃぃ!!! 分かっとるがな!!!」

 

この時、驚愕の音圧が地を這い、家の真逆側にある正面のガラス窓がガタガタと振るえたのだ。最早それを文章化する事は不可能なレベルだとも思える。ここで僕の経験値を先に話すと

 

ある時の僕はライブハウスでステージに二段積みされた100Wアンプの前に長時間居た事がある。その時も、その後二日間程耳がおかしくなった事があった。

 

又、僕の友人達は排気量二千CCを超えるような車に殆ど消音機構を持たないようなマフラーを着けていた。それは暴走族のバイクが蚊の羽音のように聞こえる程の代物だった。

 

つまり僕は今までに大概、音の大きなものを経験してきた。しかしこの時は人間が、しかも老人の口から発するものがこれらの全てを上回ったのだ。

 

こんな言葉がある。動物で一番弱いのは人間だが、本気を出した時に一番強いのは人間で、他の動物に一番恐怖を与えられるのも人間だそうだ。その時の人間は気迫で象もライオンも撃退する事が出来るのだと言う。

 

僕は直感で全てを理解した。この老人は恐らく人と命の奪い合いを経験している。そんな人間にしか出せない声だ。気が付いたら僕は正座し直し、背筋を正していた。お尻は少し浮いている。一瞬で立ち上がれる体制を取っていた。さらに直後である。煙草を吹かしながら居間に座っていたご主人が「すぅ」と少し息を吸うと、両手の平でテーブルを渾身の力で叩き付けながら叫び返した!

 

「はい分かりましたでええんじゃアホんだら!!!」

 

目の前で何かが爆発したような感じでもあった。それも絨毯爆撃の後、呆然としていた状態でさらに核爆弾が爆発したような感覚だ。

 

青天の霹靂に近いような感覚さえもあった。恐怖感も吹き飛ぶような感覚。

 

軽く腰を浮かしていたはずの僕は再びしっかり床に座していた。耳の中に何か温かいようなむず痒さを感じて人差し指を耳の穴に差してみたら少し血が出たのである。これは超音波兵器だ。それを老人が口から発したのである。

 

これに狙われるか、はたまた巻き込まれるのか。その何れにしても、5秒程度でこれから逃がれられる場所などないのだ。

つまり先程まで危険を察知して身構えていた僕は間違いなく、この場から生還する行動を取ろうと思っていたはずだ。それがこの瞬間どうでも良くなった。もし生への諦めで無いのであれば、たぶん思考が停止したのかもしれない。

 

するとバルタン老人がスゴスゴと小さくなって居間に戻って来た。そして無言で廊下の扉を開けると奥に消えていった。僕は妙な静けさの中でご主人を傍観しながら熱燗を飲んだ。

 

「いやぁ、すんませんな……。若い頃、ワシに影響を受けてしもぅて親戚がみんなヤクザになってしまいましてな……」

 

「はぁ……」

 

「ワシは僅か十年程の渡世歴で足を洗いましたが、あいつは未だに極道やってますねん。ホンマにアホですわ」

 

「……」

 

「あれはワシの従兄で浜岡義実と言いましてな。昔、その筋の者同士の縄張り争いで今で言う『関西戦争』で引き金を引きよった奴ですわ」

 

「ほぅ……」

 

「今では淀川より北側では二番目に立場のある者でしてな」

 

「へぇ……」

 

「何や?空か?まだ熱燗でええか?」

 

「えぇ……」

 

「おい真理!熱燗おかわりや!

 

「すみません、ありがとうございます」

 

「まぁ、ほなそろそろワシらもちょっと行ってきますわ」

 

ご主人はそう言うと、扉を開けて廊下の向こうへ入っていった

 

「おぅ!義実、ワレそろそろ行くど!」

 

 それからほどなくしてご主人はバルタン老人を伴い、法被に地下足袋で玄関から出て行った。

 

こうして榊家の長い二日目が幕を開けた。