5×20ツアー。
翔くんの挨拶レポを何度も読み返しております。
翔くん自身も完全文系だと以前話していましたが、翔くんの言葉ってほんとに奥深い。
ストレートだけど、独特の語法と言葉遣いで短い挨拶の中にたくさんの想いを詰め込んでくれているので、その想いをきちんと理解したいと何度も何度も読み返しています。
16日の名古屋公演での挨拶。
「僕のファンの人にとっては20年の答え合わせになるかもしれない」
そうなんです…。
翔くんの挨拶レポが更新されるたびに、ファンになってからのいろいろな情景が浮かんできていろんな想いが溢れてしまうのです。
1995年10月22日。
ジャニーズの櫻井翔が誕生しました。
(ちなみに私が櫻井翔という存在をはじめて知ったのは1997年3月21日のミュージックステーションです)
中学二年の時、両親に内緒でジャニーズ事務所に勝手に出した履歴書。
その3か月後の12月。
《「本当にやりたいのか決めなさい」と両親に言われ、続けるほうを選んだ。それが今までで一番の分岐点》
そう雑誌で語っていた翔くん。
留年しないというご両親との約束、条件のもと、13歳の翔くんはこの道を選択してくれました。
そして、その4年後嵐になる決断もしてくれました。
高校3年生の6月。
ワールドカップのイメージキャラクターの仕事を引き受けた翔くん。
《Oh Yeahを歌ってる時にいっつも思う。
もう一度あの日に戻るとしても同じ道選ぶだろう。
あの日ってのはたぶん…99年6月うちの近くの踏切で学校帰りに社長から電話もらった瞬間だと思うんだけど。
たぶん、同じ道選ぶだろうなぁって最近すごく思う》
10周年のときそう語っていた翔くん。
試験休み中にかかってきたこの電話が翔くんの運命を決めたんですよね。
その後、何だかんだと逃げられない状況になっていき…悩みに悩みデビューという決断をした翔くん。
この決断はご両親の理解もあってこそで…。
いろんな奇跡の積み重ねで現在の翔くんがいるんだなぁとほんとうに感慨深く思います。
嵐のハワイでのデビューお披露目会見から19年がたちました。
あの日、めざましテレビでその映像をみたときの驚きを昨日のことのように覚えています。
翔くんのバックグラウンドを知った時にこの人は後々ジュニアを辞めてしまうのではないかと妙な危機感をもって応援していたので…。
デビューを知った時は歓喜でした。
試験のためにジュニア活動を休むたびに、もしかしてもう辞めてしまったのでは⁉︎と心配ばかりしていました。
もしジュニアをやめてしまったら櫻井翔という存在が私の中では真っ白になってしまうわけで…。
翔くんを二度と見れなくなる…という恐怖を常に感じていたように思います。
そんな中でのハワイでの船上会見。
全く情報がなかったので、クルーザーに乗って笑顔で手を振る姿を見た時は、涙…涙でした。
と、同時に嵐5人の顔触れを見たときは驚きました。
うまく表現できないのですが、違和感というのが一番近いかもしれません。
当時のジュニアの体系からは想像していないメンバー構成でした。
でも…その感覚は徐々に薄れていき…
いつのまにかこの5人の必然性を感じるまでになっていきました。
正直、この5人でなければ!と思う日がくるなんてデビュー当時は想像さえできませんでした。
《同じ道を選ぶような嵐にしていかなくちゃいけない》
そう、語っていた翔くんにとって嵐のメンバーがこの5人であったことは奇跡だったと思います。
この5人だからこそ、このメンバーだからこそ、…今の嵐というものが形成されたのだと思います。
真面目で気遣いもできて、向上心もある5人。
翔くんがひみつの嵐ちゃんで話していた、遠慮と我慢のレベルの設定を本能で実践できる心優しい5人だからこそ、大きな衝突をすることもなく今までやってこれたんでしょうね。
嵐をやめようと思ったことは嵐になったことでなくなった。
運命共同体の5人だ。とも、翔くん話していました。
運命共同体の5人は私たちが想像している以上にお互いを尊重し大切に思っているんだろうなぁと思います。
2009年のインタビュー記事をで
《どこでもマイノリティだった、どこに行っても浮くんだよね》
数年後のTVガイドPERSONでも《どこに行ってもアウェイだったからさ…》
仕事現場でも、学校でもマイノリティ側だったことを話しています。
帰属意識の強い翔くんにとって、嵐という存在はアウェイではない、マイノリティでもない、唯一無二のかけがえのないホームになっていったのではないのかなぁと思います。
2013年の日経エンタテインメントの翔くん。
《嵐という木の幹を太くしたいんです。それぞれのソロの仕事で頑張ったことがグループに還元できればいいねという話が、1クールというレベルの話ではなく5、6年たって振り返った時に嵐という幹がものすごい太さになってた、みたいな。イメージでいうなら5色の色鉛筆が入ってる円柱の箱。今は細い筒の中に5本しか入ってないんだけど、鉛筆5本でワンセットじゃなく、筒が5個でワンセットになりたい。これも単なる僕個人の思いなんですが》
あれから、ちょうど5年経った現在、嵐はその言葉通りになっているのではないでしょうか?
年齢を重ねたこと経験を積んだことだけではない、いろいろな葛藤と努力があってこその現在の嵐だと思います。
その努力のおかげで、今こうして20周年コンサートで過去をゆっくり振り返れることができるのでしょうね。
10周年の時に翔くんが
《ファンの人たちも「出来の悪い息子ほどかわいい」と思ってくれてるんじゃないかな。「うちのボンクラが、こんなに大きくなりました」って気持ちで観てくれてるかもしれないな》
と、話していました。
出来が悪いとも、ボンクラだとも思ったことは一切なかったけれど、努力が認められてこんな素敵な嵐になってくれて嬉しいと完璧に母親目線で喜んでいたのは事実です。
いつのまにか、初回盤の予約が難しくなり、男性ファンやいろんな年代のファンをコンサートでみかけるようになった時も…ほんとうに嬉しくて。彼らがいろんな思いを抱えながら頑張ってきた結果、こんなにもたくさんの人に愛される存在になったことが…ホームがだんだん大きくなってきたことがただ単純に嬉しかったです。
《抽象的になっちゃうけど、みんなに愛されるグループでいたい。『愛されるってなんだ?』というひとつの命題に対する答えを、これからもずっと探し続けていくんでしょうね》
数年前の翔くんの言葉…。
今も自分なりにグループ像というものを模索しているのでしょう。
《コンサートの時は特に実感するけど、テレビだってレンズに向かって仕事しているわけじゃなく、その先にいる応援してくれる人を“支え”に頑張れています》
翔くん…。
こちらこそ、翔くんを支えにいろんなことを頑張れています。
《たくさんの夢を僕に僕たちにみせてくれてどうもありがとうございます。これからも僕たちに夢を重ねてくれるあなた方も含むたくさんの人たちのために…行けるところまで走ってみようかと思います。》
アラフェスでの翔くんの言葉。
こちらこそ、たくさんの夢をみせてくれてありがとうございます。
どこまで行くのか未知数すぎてわからないけれど、頑張って走ってついていきたいと思ってます。(笑)
ジュニア時代から私なりに翔くんを見てきて思うことは、本当に変わらないなぁということ。
華奢な少年だった翔くんは立派な青年になりましたが、本質は変わっていない。
不安定な階段を少しずつ少しずつ上がってきた翔くん。そして嵐。
《自分が選んだ道はリスクが高く、バクチのような人生を人には絶対すすめられたもんではない》と以前話していました。
この仕事を選んだ時から、翔くん自身いろんなことをいろんなものを犠牲にし、何かをあきらめることもあったんだろうなぁって思ってます。
もちろん嵐のみんなもそうだと思います。
今までの道は私達が想像できないような大変な道だったのかもしれない。
これからも大変な道になるかもしれない。
そんな不安定な道を選んでくれたことに本当に感謝しかないです。
この仕事を選んで良かったと思いたい…。
そう語っていた翔くん。
どれだけの人がこの仕事を選んでくれて良かった、と思っていることでしょうか。
だからこそ、翔くんには、嵐には、幸せでいてほしいなぁと思います。
毎日笑っていてほしい。
未来もしあわせであればいいなぁって切実に思います。
心から、嵐に入ってくれてありがとうと言いたいです。