Chapter 23

快感

 日本最大のファッションフェスタ「東京ガールズコレクション」。
 代々木第一体育館の前には、朝から長蛇の列ができていた。ネットで杏仁が出演するかもしれないという噂も広まり、それを期待して集まったファンも多かった。

 控え室では20人ほどのモデルが長いテーブルの上にずらりと鏡を載せてメイクをしていた。
 神山は部屋を出たり入ったり、落ち着かない様子だった。
 「杏仁のやつ、どうしちゃったんだろうな。昨日から何度携帯にかけてもいつも留守電になってしまうんだ」
 部屋の入り口では、出演しないはずの勇気が神山の様子を楽しむように見ていた。
 「結局、そういうやつなんですよ! あいつは!!」
 勇気はそう言って來香を見た。來香は無視した。
 「神山さん。さすがにもう無理でしよ? 俺、杏仁の代わりに出る準備しましょうか?」
「その必要はありませんよ!」と扉が開いて杏仁が入ってきた。
 まるで勇気に恥をかかせるために用意された演出のような登場だった。
 「杏仁、遅いよ! なんで連絡くれなかったの?」
 神山は今日の主役の登場に胸を撫で下ろした。
 「すいません。さすがの大舞台なんで、いろいろ心の準備があって」
 杏仁の鏡越しのウインクに來香も返した。

 開店前のこころ屋で、本江とヨネさんは琢郎の残した手紙を読んでいた。
 手紙には、自分の我がままでこの店を去ること、この店を譲るのでできれば本江とヨネさんのふたりで店をやって
ほしいという願いが書き残されていた。
 ヨネさんは椅子に座り、壁の色紙をボーっと見つめながら言った。
 「タクちゃん、本当に戻ってこねえのかな?」
 本江はいつかこんな日が来るのではないかという予感がしていた。
 「今私たちにできることは、今日もこの店を開けることです! 頑張りましょう」

 お昼を過ぎ、いよいよ東京ガールズコレクションが開幕した。
 客席は1万人以上の観客で埋め尽くされていた。
 会場のど真ん中にある、50メートル以上ある超ロングランウェイを人気モデルたちが次々と歩いていく。
 ——何かが起きる……。
 会場にいる観客は、そんな期待感で胸が躍っていた。

 光山杏仁は真っ白なスーツを着て、控え室の一番大きな鏡の前に座っていた。
 アイドルか王子様でもなかなか似合わないであろうそのスーツは、杏仁の魅力をより引き立たせていた。
 ブラックダイヤのように輝くショートパンツとジャケットに身を包んだ來香は立ち上がって言った。
「なんか今日の杏仁、いつもと違うわ」
「そうかな。逆にビビリすぎて顔が強張っているからそう見えるのかもよ」
 「大丈夫よ。いつもの杏仁でいればいい結果が出せるわ」
 末香は杏仁に優しく微笑みかけた。
 神山がふたりのところに近づいてきた。
 「今日はCMや映画のプロデューサーも来てるよ。杏仁に期待してるってさ」
 杏仁が進むべき道、ランウェイを歩き出すときが迫ってきた。

 こころ屋が開店した。
 ヨネさんがキッチンを担当し、本江ができた料理を配膳していくが、ふたりだけでは当然回りきらなかった。
 そんな中、ヨネさんが出前の電話を受けた。
 「出前? 申し訳ねえけど、今無理だわ」
 切ろうとする電話を本江はさっと奪った。
 「あ、大丈夫です。ちょっと待っていただけたら行きますから」
 「本江さん、いくらなんでも今、出前は無理でしょう」
 「ちょっと待ってくれるって言うし。私が急いで行ってきますから」
 ヨネさんが出前用の定食を作り本江がそれを岡持ちに入れた。
 「それじゃあ、すぐ戻ってきますから」

 東京ガールズコレクションの会場内では、モデルのファッションショーの間に行われる人気アーティストのライブ
ステージが始まっていた。
 人気のHIPHOPグループのライブは、観客のテンションを限界まで上げていく。
 このライブが終わると、観客へのサプライズショーが始まる。
 杏仁がスターへのランウェイを一気に走り出すショーが始まるのだ。

 控え室のモニターには、絶頂を迎えているライブステージの様子が映し出されていた。
 杏仁はテーブルに置いてあるミネラルウォーターに手を伸ばした。もう3本目だった。
 「緊張して喉が渇くんでしよ?」
 半分は正しかった。
 数分後には、あの大勢の客が待つステージに上がるのだ。そして、あの50メートルのランウェイを歩ききったその先には、もっと大きくて広い道が杏仁の前に広がっているはずだ。大木琢郎では一生歩くことのできなかった道だ。
 あとの半分は心配だった。
 自分がいなくなったこころ屋が心配だった。
 本江とヨネさんだけで店をやってくれているのか? ふたりだけでちゃんと回るのか?
 もしかしたらこころ屋はなくなってしまうんじゃないか?
 心配が小さな後悔の念に変わりそうになった。
 ——ちゃうわ! 俺が杏仁になることでみんなが幸せになれるんや。
 そう言い訳して、今ここにいる自分を肯定するしかなかった。
 ——そのうち時聞が解決してくれる。
 何よりパーフェクトハンサムスーツを着てしまった今、後戻りはできないのだ。

 神山がパーンと掌を合わせた。その音で杏仁の迷いが飛んでいった。
 「さあ、ライブが終わった! 來香と杏仁はステージの袖にスタンバイしようか」
 杏仁は大きな深呼吸をした。「行きましょう!」と來香が杏仁に手を差し出した。
 杏仁が來香の手を軽く握ったときだった。
 ——電話や。
 机の上に置いてあった杏仁の携帯がバイブで揺れていた。
 ——ヨネさんだ。
 携帯は伝言メッセージに切り替わった。
 「ちょっとごめん」
 杏仁は來香から手を離し、携帯を取り、伝言メッセージを聞いた。
 ヨネさんの今まで聞いたことのない慌てた声が響いた。
 「タクちゃん! 大変だ。本江さんが………、本江さんが出前の途中でバイク事故にあって、亀山病院に運ばれちまったんだ! 今、意識不明で」
 ピーという音とともにメッセージは切れた。
 ——本江さんが事故にあった?
 本江がバイクに轢かれて意識不明のまま救急車に運ばれていく映像が再生を始めた。
 杏仁の頭の中で罪の意識がどんどん広がっていった。
 追い討ちをかけるように、また携帯が揺れ始めた。ヨネさんからの再びの電話だった。
 携帯を握り険しい顔を見せる杏仁に、來香は「どうしたの? 何かあったの?」と心配そうに声をかけた。
 來香のその言葉が合図になったように、杏仁は右手の親指にグっと力を入れて携帯の電源を切った。
 ——悩んだってしかたない。迷ったってどうしようもない。もうこのスーツは脱げないんだ。

 「みんながあなたを待ってるわよ」
 來香のその言葉に杏仁は「分かってるさ」と言って、今度は自ら來香の手を取った。

 杏仁と來香がステージの近くに現れると、待っていたスタッフとスポンサーは一斉に拍手で出迎えた。
 「この先に俺が歩くべき道があるんだよね」
 來香はコクリとうなずくと神山に言った。
 「神山さん、そこちょっとだけ開けてあげて」
 神山が仕切られているカーテンを捲ると、会場のステージが眩い光とともに顔を出した。
 まぶしそうに目を細める杏仁を見て神山が言った。
 「このランウェイを歩ききったら、さらにでっかいステージが待ってるからね」

 ステージでは司会をするお笑い芸人が出てきて進行を始めた。
 いよいよ杏仁の登場するコーナーが始まる。
 「さあ、ここからはサプライズシヨー! 今大人気のあの人が登場です!」
 その言葉に観客の期待が膨らむ。

 杏仁と來香は無言で見つめあい、大きくうなずいた。
 つないでいた手を再びギュっと強く握り、ふたりは歩き出した。

 無音……、そして………、爆発。
「キャ————————————————ッ!!!」
 1万人を超す観客の声が杏仁と來香に向けて一斉に響く。轟く。ふたりに降り注ぐ。
 ——最高だ みんなの声が気持ちいい!
 プレッシャーで暴発寸前だった心臓が今まで感じたことのない快感で高鳴り始めた。
 杏仁は來香と手をつないで、ゆっくりと50メートルのランウェイを歩き出した。
 一歩ずつ一歩ずつ、歓喜のシャワーを浴びながら。この喜びを噛みしめるように、ゆっくりと、ゆっくりと歩いた。
 杏仁は客席を右から左へと見渡した。
 自分を見て声を上げて喜んでくれる人たち。
 そんな人の顔をひとつひとつ見つめていたかった。
 ——杏仁になってよかった。
 自分の決断に、みんなから太鼓判を押してもらえたような気がした。

 ふたりはランウェイの先端に到着した。
 会場にさらなる声がこだまする。
 客席に向かって手を挙げると、今までよりも大きい、悲鳴にも近い歓声が杏仁を包んだ。

 杏仁は目を瞑って、この先に広がる未来の自分を想像した。
 これからCMに出る。ドラマに出る。映画にも出る。
 もっともっとみんなの人気者になる。たくさんの人が褒めてくれる。
 みんなからもっと求められる存在になる。
 手から溢れんばかりの喜びが次から次へとおとずれる。

 でも……。
 この喜びを誰が心から本気で喜んでくれるのか?

 ——そもそも俺はその摑んだ喜びを誰に伝えたい? 誰と分かちあいたい?

 ——來香? 神山? それとも誕生会に来てくれた人たち?

 ——本江さん?……

 ——本江さん!?

 ——本江さん……

 ——行かなアカン! 今は本江さんのところに行かなアカン!

 定食を食べた後のお客さんの「うまい」の一言。
 ヨネさんがスイッチを押して流れるMy Revolution。
 毎日弁当を買いに来てくれるおじいさんの笑顔。
 本江さんの肩揉み、本江さんとの小さな幸せ探し……

 どれもが今、ここにある大きな幸せと比べるとちっぽけすぎるほどの幸せだ。
 でも、こころ屋にはそのちっぽけすぎる幸せがたくさんたくさん詰まっていた。
 「琢郎にはそのうちまとめて大きな幸せ、ガツーンと落ちてくるで」
 母の泰子はそう言った。
 その大きな幸せをずっと探してきた。もがいてきた。
 琢郎は今わかった、それはこころ屋だったのだ。
 毋は自分にそれを残してくれたのだ。
 小さな幸せがたくさんたくさん溜まる箱を。

 杏仁はランウェイの一番先端で、いきなり観客に背を向けて走り出した。
 「杏仁! どこ行くの?」
 さすがの來香も平静さを失って大きな声で叫んだが、杏仁には届かなかった。
 客はこの杏仁の行動を演出だと勘違いして、「フ——ッ!」と歓声をあげていた。

 杏仁は走った。
 もう二度と琢郎には戻れない。どうにもならない。
 だけど杏仁は走った。
 豚のタクちゃんがいきなり連れ去られたあの日のように。

 50メートルのランウェイを一気に戻り、ステージ右奥のスタンバイ場所を駆け抜けようとしたとき、杏仁は右腕をガっと強くつかまれた。
 「どういうつもりだ! 杏仁!」
 神山の表情は驚きを超えて怒りに満ちていた。
 そのとき、メロディーが流れていることに気づいた。
 オルゴールの音。
 ——My Revolution
 ——!! 俺の腕の中からや

 琢郎は体の一部となっていたリストバンドを外すのを忘れて、パーフェクトスーツを着てしまったのだった。
 ——あれ? ってことはもしかしたら……
 白木に言われた言葉を思い出した。
 『このパーフェクトスーツを着るときは生まれたままの姿で着てください』
 ——もしかしてリストバンドの部分に空気が入り込んでるかもしれへん。

 杏仁は神山の腕を振り放し、近くの誰もいない控え室に走った。
 中に入り、鍵をかけると、スタイリストの道具箱を探ってカッターを見つけた。
 杏仁として着ていた服も下着も全部脱ぎ、まだ音の鳴っている自分の右腕を見つめ、まるでリストカットする少女
のように自分の手首に切りつけた。
 すると中から、リストバンドが顔を出し、スーツと隙開から空気が入り始めた。
 琢郎はカッターで切った右の手首の部分に左の親指をかけて、全身の力を入れて引きちぎった。ビリビリビリッと
 音を立てて杏仁が、いや、ハンサムスーツが一気に破けた。
 中から、大木琢郎が出てきた。

 「お前はブサイクやな~!! でも、それでええ!!」
 琢郎は右腕のリストバンドにチュっとキスをした。
 「また本江さんに助けられたわ」

 真っ白な服を着た豚の王子様が控え室を飛び出た。
 格好よく部屋から出たつもりだが、体は琢郎に戻っていた。体をガツンと扉に挟まれ。
 「痛ッ」
 そんな琢郎の目の前に、杏仁を追いかけてやってきた來香が立っていた。
 「來香さん!」
 來香と目が合う。來香は無言で見つめていた。
 「さよなら……、來香さん」
 琢郎がその言葉を投げると、來香は言った。
 「…………。ってあなた誰??」
 琢郎は笑顔で短い腕を上から下に一気に振り下ろした。
 「コマネチ!」
 來香は笑うことはなかったが、琢郎にこう言った。
 「なんだか分からないけど、あなたに今、がんばれって言いたいわ」
 「ほんまに、めっちゃありがとう」
 琢郎は來香に大きな声でお礼を言って、会場の出口に向かって走って行った。

 來香は体を揺らして走っていく琢郎の後ろ姿を見つめながら、呟いた。
 「……誰なの? あのデブ?」