Chapter 21
選択
「紳士服のパーフェクトスーツ」に向かう満員のバスの中で琢郎は窓にぼんやりと映る自分の顔に向かって言った。
——いよいよハンサムスーツとお別れやで。それでええんやな?
窓の中の琢郎はゆっくりとうなずいた。
琢郎のすぐ目の前にぽっちゃりしたOLが立っていた。酔ったのだろうか少し苦しそうだった。でも、理由はそうではないことが琢郎にはすぐ分かった。
——痴漢や。
琢郎の左側には小洒落た黒縁のめがねをかけた、さわやかそうな顔のサラリーマンがいた。その男性が右手を伸ばして女性の腿をゆっくりとまさぐっているのが見えた。琢郎以外は誰も気づいてないようだった。
徐々に手が上に上がっていく。手は、スカートの中に突入せよ! というところまできていた。
OLは目をギュっとつぶった。
琢郎は痴漢の手をガツっと掴んで動きを止めた。
そして痴漢が琢郎の手から自分の手を引き離そうとした瞬間だった。
OLが琢郎の手をガツンとわし掴みにした。
「運転手さん! すいません、痴漢です!」
OLは琢郎の手を上に上げた。SOSを聞いた運転手がバスを停車させると、バスの中の客が一斉に琢郎を見てざわつき始めた。
「ぼ、僕じゃないですよ」
琢郎は慌てて否定したが、OLの息は荒い。
「嘘よ! さっきからずっと触ってたでしょ!」
「違うんです。僕は痴漢してた人の手を止めたんです。あなたを助けようと思って」
琢郎のこの言葉を信用する人は、バスの中には誰もいなかった。
「よくそんな図々しい嘘つけるわね。じゃあ、誰がやったって言うの?」
「こいつです。こいつがやったんです」
OLがサラリーマンの顔を見て言った。
「この人が?」
「おいおいおい、そうやって痴漢を逃れようって言うの?勘弁してくださいよ」
「そうよ。私の後ろに立ってたのはあなたでしょ?」
OLはあっさりと痴漢に味方した。
「ふざけんなや」
琢郎はカっと頭に血が上り、痴漢のネクタイを強く掴んだ。
「おい、痴漢した上に暴力までふるうのか?」
まわりにいた客が「最低だな」「気持ち悪い」とざわめいた。
OLはさっの苦痛の表情が嘘だったように琢郎に命令口調で言った。
「あなたがやったのは分かってるのよ。白状しなさいよ!」
「だから僕じゃないですって」
「嘘つきなさい! 分かってんのよ」
「なんで分かるんですか」
OLは「呆れた」という顔をした。そして痴漢を指して言った。
「この人が痴漢するような顔じゃないでしょ?」
まわりの客はうなずいていた。
「たったそれだけの理由ですか?」
琢郎は納得いかない表情でOLに顔を近づけた。
「バレたからって開き直ってこの場で堂々と痴漢する気?」
琢郎の襟元を痴漢が掴み、言った。
「ほら。下に警察来たから行くぞ」
停車したバス停に、通報を受けた警官が待っていた。
乗客は再出発までは時間かかかりそうだと判断し、ぞろぞろ降りて行った。
「だから痴漢はしてへんって言うてるやろ。痴漢はお前やろが!」
琢郎は手を振り払い、痴漢の胸をドンと突いた。
その勢いで痴漢は鉄柱にゴツンと頭を打ち「痛い……」とわざとらしく頭を押さえてひざまずいた。
それを見たOLが悲鳴に近い声を上げた。
「おまわりさん、早く来て!!」
警官がバスに乗り込んできて、琢郎の右腕を掴んだ。
「おとなしくしなさい」
「だから俺やってへんって!」
そんな言葉を警官が聞く耳を持つわけがなく、さらに強く腕を掴んだ。
そのとき、リストバンド・からオルゴールのメロディーが鳴り始めた。
My Revolution。
曲が寂しく鳴り響く中、琢郎の両手に手錠がかけられた。
「ほら、警察行くぞ!!」
「ちょっと待ってください! 話聞いてください!」
そんな琢郎を見て、OLは今にも唾を吐きつけそうな顔で言った。
「とっとと警察行きなさいよ!! 気持ち悪い」
——気持ち悪い? そうか俺は気持ち悪いんや。
琢郎は全身の力がガクっと抜けるのを感じた。
警官が手錠をかけた琢郎の手をひっぱると、琢郎は抵抗することなく足を進めた。
琢郎は降車口でOLを振り返り、聞いた。
「もし……、もし僕が格好よかったら、僕のことを疑いましたか?」
琢郎の目から涙が流れ出し、バスの床にゆっくリ落ちて壊れた。
その質問にOLはドキッとした表情をしたが、それを掻き消すように言った。
「気持ち悪い! 早く連れて行ってください」
OLは琢郎の質問に答えなかったが、琢郎には分かっていた。
——結局こうや……。俺はこのままだと一生こういう人生なんや。
拘置所の中で琢郎はずっと考えていた。
——人間にも自分の取扱説明書があったらええのに。
物心ついたときから読まされる自分の説明書。
顔や身分によってその書かれている内容は違う。
そこには生きるための〝使用上の注意〟が書いてある。
美人との結婚を望んじゃいけません。
大金を望む仕事をしてはいけません、とか。
もし琢郎の取扱説明書があったら、こう書かれているはずだ。
あなたの容姿では大きな幸せは望んではいけません。
誰かが客観的に、そうハッキリ言ってくれたほうが人生諦めがつくのに
琢郎は刑事の取調べを受け、あっさりと罪を認めた。
そうしないと、いつまでだってもここを出られないことも分かっていた。
——裁判になっでも俺の無実が晴れることはない。俺の顔はそういう顔やから。
女性と、ケガをしたという痴漢に示談金を支払う約束をして釈放された。
身元引受人として迎えに来たヨネさんと一緒に琢郎は警察を出た。
「俺は分かってるからな! タクちゃんは痴漢なんかしてねえ! 絶対、タクちゃんは」
「もうええねん。ほんまにもうええねん。ヨネさん、いろいろありがとう。 ごめんな……」
琢郎の目からは、もう涙も出なくなっていた。