Chapter 11
リストバンド
「明日、丸一日休む??」
よほどの体調不良でもない限り店を休むことはなかった琢郎の言葉に、ヨネさんは驚いていた。
「何があるの? 店休むほどの大事な用事って」
昔イタリア料理の修業時代にお世話になった先輩が病気で倒れてしまい、奥さんが困っているのでその店を助けにいきたい。琢郎は胸が痛んだが、そんな墟をついた。
今までの琢郎ならつけない嘘だった。
「店ごと休むのもなんなんで、ヨネさんと本江さんだけで店やれませんか?」
「そんなの無理だよ。僕らだけじゃ作れないっしよ?」
「なら軽く調理するだけでいいように、今晩全部仕込んでおきますから」
ヨネさんは渋々だったが了承してくれた。
深夜12時を超えたこころ屋のキッチンで琢郎は仕込みを始めていた。 50食以上を仕込まなければいけなかった。結構な量だった。
「終わるかな、これ」
そのとき、「おつかれさまでーす」とおかめ顔に笑顔を浮かべて本江が入ってきた。
「本江さん!! どうしたんすか?」
「ヨネさんから電話で聞きました! 明日琢郎さんが休から全部一晩で仕込むって」
「ほんま我がまま言ちゃってすいません。でも、なんでここに?」
「これ! 飲んでください」と本江はバッグからドリンク剤を出した。
「!! ありがとうございます! ちょうど買いに行こうと思ってたんです」
「よかった」
本江の行動はかゆいところに手が届く。
琢郎はドリンクの蓋を開けて一気に飲んだ。
「うわー、もう効いた気がしてきた。これで今夜は大丈V」
こんなギャグにも、本江は笑顔で応えた。
「私も手伝います」と本江はキッチンに入った。
「いや、悪いですって!!」
「いいんです! どうせ家にいてもやることないし……」
琢郎は本江の好意を受けることにした。本江がいれば朝までに仕込みは終わる。
「あ、そうだ。これ、もしよかったらこれ使ってください」
本江はバッグから、真っ赤なリストバンドを取り出した。
真ん中に白い文字で『こころ屋』と刺繍が入っていた。
「どうしたんですか、これ?」
「琢郎さん、フライパン振ってるとき、手、痛そうだったんで……」
確かに琢郎は長年フライパンを振り続けているのが原因で腱鞘炎になっていた。
「あと仕事中、顔の汗ふくの、タオルよりこっちのほうが便利だと思います」
「ほんまありがとうございます」
「あ、この「こころ屋」のところ、押してみてください」
言われたとおりにその部分を押すと、リストバンドの中からオルゴールのメロディーが流れてきた。琢郎の背中をいつも押してくれるあのメロディーだった。
「これ……My Revolutionや……」
本江はニコっと笑った。
「今、小さな音の鳴るチップが入ってる葉書、あるんですよ」
「あ、知ってますよ。うちに届いた結婚葉書にも付いてました」
本江はそういう葉書を買って、チップだけ取り出してこの中に埋めて縫ったのだという。
「仕事してて、疲れたな一と思ったら押してください」
琢郎はその場でそれを腕にハメた。長年履きなれた靴のようにしっくりきた。
「これ、風呂入るとき以外はずっとしてますから。ほんまにありがとうございます」
琢郎の喜ぶ顔が本江にも伝染する。本江のおかめ顔が琢郎をホっとさせた。
「それじゃあ、始めましようか」
琢郎は長ネギを切ろうと手を伸ばした。
本江も同時にそのネギを取ろうと手を伸ばした。
その瞬間、ふたりの手と手が長ネギの上で触れあった。
ふたりの声がハモった。
「すいません」
——なんで一瞬ドキっとしてんねん、俺!?
本江はキャベツを千切りにし始めた。
琢郎は本江を見て思った。この人はどんな恋愛をしてきたのだろう?
おそらく自分と同じようにいい恋愛はしてこなかったはずだ。ブサイクでデブな人間が幸せな恋にたどりつける確率は低いのだ。一度ハゲてしまった人がフサフサに髪が生えてくるくらい低い確率だと琢郎は誰よりも知っていた。
でも、こういう人こそ本当に幸せになってほしいと琢郎は心から思った。
「本江さんは今、好きな人とかいるんですか?」
本江はキャベツを切る手を止めて、琢郎に顔を近づけた。
「……すぐ近くにいたりして……」
——……………………………………。
「冗談でしょ?」
「冗談ですよ」
「もーう、勘弁してくださいよ」
「琢郎さんはいるんですか?」
「好きな人っすか?」
真っ先に浮かんだのは寛子の顔だった。
「ついこないだまでここで働いてた女の子。めっちゃスキでした……」
本江の手がパっと止まり、おかめ顔が驚いた。
「そうだったんですか?」
「俺、ブサイクなくせに調子こいて告白なんかしてもうて」
「フラれちゃったんですか?」
琢郎は下を向き、うなずいた。
「当然ですよね。俺があんな子に告白してうまくいくわけなかったんです」
気づくと琢郎は寛子にフラれたことをすべて喋っていた。
「つうか、何喋ってんや、俺」
「まだ好きなんですか?」
「……はい……。忘れられないんです」
本江には本音が言えた。本江なら分かってくれると思えた。
「本江さんだとなんか喋っちゃうんやな……」
「本江さん、メールアドレス教えてもらってもええかな?」
「! はい。いいですよ」
「留守にしてる間に店で気づいたことがあったらメールしてください」
「赤外線で交換しませんか? そのほうが速いですから」
琢郎は本江に教わって、自分の携帯と本江の携帯を近づけた。
——なんか間接キッスみたいや。ていうか、なんでドキドキしてんねん……。
赤外線で送られてきたアドレスを、琢郎は登録した。