Chapter7
試着
 
 ——こうなったら着たるわ。
 人生の中にはいくつもの初体験があるが、琢郎は初めて飛行機に乗ったとき以上にドキドキしていた。
 右手をスーツの中に通すと、ヌルっとした感覚が琢郎の腕を包んだ。
 ——なんかスライムみたいや。
 左手を通し、次は右足。そして左足。
 奥まで通しきると、中はぬるめの風呂のような温かさがあった。
「……よし! 顔もいったるわ」
 琢郎はハンサムスーツをすべて着込んだ。でも、視界があまりよくはなかった。
 うっすら鏡に映る自分の顔を見ると、ハンサムとはほど遠い、パンストを被った銀行強盗の犯人のような顔だった。
「どこがハンサムなんですか!」
 やっぱり騙されていたんだ。そう思ってハンサムスーツを脱ごうと手をかけたとき、沢田がその手をパっと止めた。
「最後に掃除機で吸うんです」
「掃除機!?」
 沢田はダイソンの強力掃除機を持って、先端をスーツの背中にスポっと差し込みスイッチを入れた。
 琢郎の着たスーツからどんどん余分な空気が抜けて、体にフィットしていく。
 ——布団圧縮袋みたいやないか。
 いつもは膨らみさっている腹の肉がどんどん中に押し込まれていくが、苦しさは感じなかった。徐々に顔も手も足も、スーツが肌のようにスーっと馴染んでいった。
 ——全身を筆で撫でられてるみたいや。気持ちええやん。
 吸い込むこと1分、沢田はスーツから掃除機をスポっと抜き、餃子の皮を重ねあわせるように背中の部分を重ねた。
 白木は琢郎の姿を見て、拍手をしながら言った。
 「ブラボー! さあ、自分の姿を見てごらんなさい」
 琢郎は鏡に映った自分の姿を見て愕然とした。

 ハンサムな男が全裸で立っていた。
 
 男性ファッション誌から飛び出てきたような顔と肉体。筆でしっかり描いたような眉毛と、メスで切ったかのようなパッチリとした二重。瞳は黒目7割白目3割ですべてがバランスよく配置されていた。
 目と目の間からスラリと山脈のように鼻が伸び、艶やかな唇は、水彩絵の具で紅色をさっと描いたようだ。笑うと真っ白な歯が輝いた。
 髪の毛は真ん中でさらっと分かれ、襟元まで伸びている。オープンカーでドライブしたら、タテガミのようになびいて助手席の女性を魅了しそうだ。
 総じて言うならいい男。でも、“イケメン”では表現し切れてない。これぞハンサムという言葉がぴったりだ。
 スタイルまでハンサムだった。メタボで妊娠9ヶ月の女性のように膨らんでいた琢郎の腹は凹み、腹筋もキレイに6つに割れ、お腹のへその下から生えてるんじゃないかというくらい足がすらりと長かった。
 身長180センチはあるだろう。
 空に向かってまっすぐ伸びるヒマワリのような、圧倒的存在感と躍動感があった。
 その蜜に誘われて、ミツバチが思わず、とまってしまいそうな雰囲気だった。

 ——誰や? 俺か? ハンサムスーツを着た俺か?
 琢郎は自分の股間を見つめた。
 そこまでもがハンサムに変わっていた。
「!! なんやこれ……! オレ、めっちゃハンサムやん。……なんで?」
「ハンサムスーツを着たからですよ」
 琢郎には白木の言葉が信じられなかった。信じられるわけがなかった。でも、信じざるを得なかった。
 ——俺はほんまにハンサムになったんや!
 白木がラックから別のスーツを外して言った。
「そのスーツがお気に入りじゃなければ他のもありますよ。あ、それとも帰ります?」
 過去の発言を撤回することに、もう恥じらいはなかった。
「別のスーツも着させてもらっていいですか?」
 白木が「そうじゃなきゃ」と笑って他のスーツを渡した。

 今度のハンサムはひと昔前のたとえで言うと醤油顔。
 80年代後半のトレンディードラマの主人公を演じそうなハンサムだ。
 琢郎は妄想を始めた。

 とあるマンションの一室でこのハンサムは暮らしている。
 部屋のインターホンが鳴り、ドアを開けると寛子のようなキレイな女性が立っていた。
「すいません、隣に住んでる者なんですけど、ちょっとテレビの配線が分からなくて」
 彼女の部屋に行き配線を手伝う。簡単に線をつなぐ姿を見て彼女は言った。
「こういう男の人の姿にほろっときちゃうんですよね」
 テレビをつなぐはずの配線は、俺と彼女、ふたりの恋をつなぐ線になった。

 ……と、だっさいトレンディードラマの展開を妄想したところで気づいた。
 ——お前、配線、めっちゃ苦手やないか!

「では、こちらはどうですか? 渋目ですよ」

 今度は年のころ、40過ぎのまさしくダンディーな男。
 大人の女性との恋がよく似合いそうだ……。

 家で料理するための材料をスーパーに買いに出かけた。
 煮つけたらうまそうな鯛がある。残り1匹だ。
 そのとき、同時に手を伸ばした女性の手があった。
「どうぞ」
 その鯛を彼女に差し出すが彼女は遠慮する。
 すると彼女がサプライズな提案をしてきた。
「それじやあ、この鯛、一緒に食べません?……うちで」
「嬉しいな……。僕もこれを一緒に食べ……タイ」
 あまりに早すぎる展開に疑いはない。なぜならハンサムだから。
 彼女の部屋でビールを飲みながら鯛をつつく。
 今日は旦那が出張中だと言う。
 どうやら旦那とうまくいってないらしく、その愚痴や悩みを聞いた。
 そろそろ帰ろうと立ち上がったとき、横にいた彼女も立ち上がった。
 しかし。彼女は体勢を崩し、俺の胸に顔がうずまる形になった。
「ごめんなさい」
 ドラマティックな展開に疑いはない。なぜならハンサムでダンディーだから。
 そのときだった。
 マンションの扉がガチャっと開き、出張中だったはずの旦那が帰ってきた。
 見知らぬ男に抱擁されている妻の姿を目撃してしまった旦那。
 ステレオから鳴り響くシヤ乱Qの『いいわけ』。その曲とともに叫んだ。
「この泥棒野郎が~! ぶっ殺してやる!」
 怒り狂った旦那は、キッチンにあった包丁で俺を剌す。
 ドスッ。
「また、生まれ変わったら一緒になり……タイ」
 ダンディーすぎるさよならの一言を残し、そのまま息絶えたのだった……。

 ——死んだらアカンやる!

「もう一回最初のやつ、着させてもらっていいですか?」
 琢郎は再びそれを着せてもらい、ハンサムになった自分を鏡に映してみた。
「やっぱりこれが一番しっくりくるな~。俺、ハンサムやわー」
「まだハンサムじやないところがありますよ」
「なんでですか!? 完璧でしょう?」
「まだ声がブサイクです。喉元に声を変えられるダイヤルがあります。左右に回してみてください」
 琢郎は、喉仏の上あたりを触った。確かに皮膚の下にダイヤルの感触があった。そこを回すとカチつという音がした。甘めの声。渋い声。透き通るような高い声、次々と別の声がでた。中にはテレビで犯罪者が声を変えて喋るときのような、どう考えても必要ない声もあった。
 琢郎は甘めの声が気に入りセットした。
「この声にしますわ」
「ハンサムな声だ。でも、どうせならその声は標準語のほうが合いますよ」

 ハンサムスーツの上から黒いスーツを着込んだ琢郎に白木が選択を迫った。
「さあ、このハンサムスーツのモニターになっていただけますか?」
「モニターって何すればいいんですか?」
「気が向いたときに、これを着て普通の生活をしていただくだけでいいんです」
「それだけですか?」
「その生活の中で生じた不具合などがあればそれを報告していただきたい」
「じゃあ、これ……、持って帰れるんですか?」
「ただし、このことは一切口外なさらないでください」
 白木の真剣な目から、絶対に破ってはいけない約束だということが伝わってきた。
「名前、決めないといけませんね」
「名前?」
「このスーツを着たときは別の名前が必要なんです」
「名前!? そうか……」
「名前を登録すれば、自動的に戸籍もできます。パスポー卜も取れるんです!」
「そうなんすか!? え、でもなんて名前にしよう?」
「私、考えてみたんですけど聞いてもらえますか?」
 沢田が真っ白な半紙と筆ペンを渡すと、白木はそれを床に置き、書き始めた。
「名字は、光のごとく輝き山のごとく堂々とする男で光山!」
「光山」と半紙に綴った。
「名前は、あんにん」
「杏仁」と綴った。
「杏仁……? なんで杏仁なんですか?」
「杏仁豆腐のように優しくて甘い……」
「光山……杏仁……! ハンサムな名前じゃないですか!」
 杏仁豆腐が白木のただの好物であることは知る由もなく、琢郎はその名を快く受け入れた。
「俺が光山杏仁か……」
 自分の姿に見とれる琢郎に白木が最後の注意事項を付け加えた。
「このスーツはモニターのための試着用。お湯に弱いので気をつけてください」
「試着用?」
「それでは素敵なハンサムライフをお楽しみくだください」