Chapter 4
思い出は食い逃げ
 
 琢郎が出前に行っている間に、こころ屋ではヨネさんと寛子が後片づけをしていた。
 ヨネさんはトレイを1枚ずつダスターで拭き、寛子はキッチンに立ち、食器を洗う。米粒などがこびりついてスポンジでこすっても取れないものを、寛子は自分の爪でひっかき。キレイにする。そんな寛子を見てヨネさんは「久々に長続きするかもな」と安心した。
「定食、一食450円って、安いですよね」
 寛子はヨネさんに尋ねた。
「泰子さんの頃からずっと変えないんだ」
「泰子さん?」
「あいつの母ちゃんよ! 味も値段もずっと守りたいんだってよ」
 その答えを聞いて、寛子はちょっと嬉しそうな顔をした。
 今度はヨネさんが聞いた。
「寛子ちゃん、なんでこの店で働きたいと思ったの?」
「今までバイト経験とかなかったので、一度くらいは働いてみようって……」
「そうじゃなくて、この店を選んだ理由よ! 働くところなんかいっぱいあったっしよ?」
 寛子の手が止まる。
 あのときの思い出をそっとタンスから出した。
「ずっと前にここに食べにきたことあるんです。お父さんと……」
「!? そうだったの?」
「小学生のとき、この近くでピアノを習っていたんです」
「この町に寛子ちゃんがわざわざ教わりに来るような素敵な先生がいたのね?」
「その日、父が迎えに来てくれて、帰りにご飯食べていこうってことになって」
「偶然、入っちゃったんだ!」
「父が通りすがりの人に聞いたんです。このあたりでおすすめどこですかって」
「そんな昔のことよく覚えてんね」
「はい。忘れられないことがあって」
「え!? 隣の客がゲロ吐いたとか?」
「食い逃げしようとした人がいたんです」
       
       
       ★
 ヨネさんは野球帽を被ったうらぶれた40過ぎの男の胸倉を掴み、店の壁に押し付けて怒鳴っていた。
「食い逃げってどういうことだ、こら!」
 男はヨネさんの腕を泣きそうな目で振り払うと、その場で土下座して謝りはじめた。客は箸を止め、おそらく初めて見るであろう食い逃げ捕り物帖に目が釘付けとなっていた。
 小学6年生の寛子もそのひとりだった。
 ヨネさんが通報するために電話を取った。
「謝るなら最初から食い逃げすんな。今警察呼ぶから」
「勘弁してください。2日間、なんも食えてなくて……」
 同情作戦に出るが、ヨネさんの心には届かなった。
 ヨネさんが110番を押すと、途中で、琢郎が受話器を取り上げガチャンと切った。
「この人、今日、財布忘れたんや。今取りに行こうと思っただけやろ」
「いや、どう考えても食い逃げでしよ」
「そのうち持ってきてくれるって。なあ?」
 食い逃げ男は琢郎の言葉に合わせる顔がなく下を向いた。
「はよ、財布取りに帰ってええで。待ってるから。明日でも明後日でも来年でも」
「本当にすいませんでした……j
 涙交じりの声でそう叫んで、食い逃げ男は出て行った。
「こんなことばっかしてるから売り上げあがんないんだよな」
 ヨネさんが愚痴った。
「うちの飯食って不幸になる人なんか出したないねん。それにただで食うた代わりにここの味、ずっと覚えててくれるなら、安いもんやで」
「本当ダメ店長だな」
 それを見ていた寛子の父は、生姜焼きを一口、口に入れて寛子に言った。
「ここの飯、うまいな」
 寛子はうなずいた。
「おいしいね……」
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「あったな。そんなこと。あ、あの事件の1年後くらいだったかな。持ってきたんだよ」
「持ってきた? 何をですか?」
「食い逃げ男が450円持ってきたのよ。仕事が見つかったとか言ってさ」
 ヨネさんが指差すキッチンのカウンターの上には、空のジャム瓶が置いてある。その中に入れられている100円玉4つと50円玉ひとつ。
「そのときのお金。タクちゃん、ずっとあそこに置いてお守り代わりにしてんの。ったく、タクちゃん、人が好すぎで商売人に向いてないよな!」
 そう愚痴りながらもヨネさんは嬉しそうに笑った。
「近所のひとり暮らしのじいさんに100円で弁当売っちまうしさ」
 変わってほしい世の中がある。変わってほしくない世の中もある。
 変わってほしい人もいる。でも変わらないでほしい人もいる。
 こころ屋が変わっていなかったことが寛子には嬉しくてたまらなかった。