人生がうまくいかないのは、そんなゲーム設定になっているに過ぎない! | 魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

魔法の言霊――寿詞(よごと)説法師が贈る人生のヒント

おめでとうございます!

『魔法の言霊(東方出版刊)』の著者・橘月尚龍です。
ボクが、この本を上梓したのが2002年――
それから世には同様の表現があふれて玉石混合で、
わけ分からん状態になってます。

そこで本家としてのメッセージを発信することにしました。

 前回「人生が思いどおりでないのは、世の中のせい」だと述べた。つまり、世の中が「そんな設定になっている」ということで、その設定自体にいいも悪いもない。

 じゃあ……なんで、そんな設定になっているのか?
 さらに「わざわざ自分は、そんな設定の人生にいるのか?」という疑問が起こってくるだろう。当然だ。

 答えは簡単で――
 そんな設定の人生というゲームをチョイスしたから。
 でもって、それを忘れているだけのこと。

 このあたりについても『非責任のススメ(鋭意、執筆中)』から引用しよう。

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 ボクは著書『魔法の言霊(東方出版刊)』で「人生はゲームだ」と書いた。この考えは、いまも変わらない。でも、読んでいないかたのために少々、説明しよう。

 あなたはテレビゲーム(最近はスマホのオンラインゲームかな)は好きだろうか? ボクはあまりしないのだけど――うちの愚息がハマってるので、時々、見せてもらったり、ちょっとだけつき合ったりする。
 スゴイね、最近のゲームってのは……。むかしファミコンなんかでプレイしていた時とは大ちがい。グラフィックは凝ってるし、迫力も映画並みだ。

 ……中略……

 そこで本題だ。
 どうしてこんなにひとは、ゲームにハマるんだろう? なにがそんなに面白いのだろう? 話題の新作が出るとなると、電機屋とかコンビニといった販売店前に徹夜組までが登場するのだろう? ン億円単位の売上になるのだろう? スマホの請求書を見て愕然とするほど熱中してしまうのだろう?

 答えはシンプル……それは「むつかしい」からである。

 だって考えてもみてほしい――
 あなたがゲームソフトを買ったとする。早速、セットしてゲームの開始だ。まずは最初のダンジョン。雑魚キャラを蹴散らすと、いきなりその面のボスが登場。あなたがコントローラーを操作して、パンチ一発! するとボスがすぐに「ごめんなさい」と平伏して魔法のアイテムを差し出す。

 ……中略……

 あっというまに最終ダンジョン。ついに大ボスの登場だ。その大ボスが攻撃を仕掛けてくる。でも、あなたにはアーマーがあるから大丈夫。防御は完璧だ。つぎは無傷のあなたの攻撃の番である。すると画面の隅にマニュアルが表示される。手順に従って、まずは魔法のアイテムを使う。大ボスの動きが封じられた。そこであなたはソードを一閃! 見事に大ボスを倒し、完全クリア。ゲームはエンディングを迎える。

 ……こんな簡単なゲームソフトをあなたは買うかい? 絶対に買わないだろ!
 そうなんだ。ゲームの値打ちは「むつかしい」ところにある。なかなかクリアできないからこそ、徹夜してまで買う気になる。

 ……中略……

 このゲームをあなた(もちろん、ボクも)の人生にたとえてみようというのが、ボクの提唱する「人生ゲーム」論である。
 あなたは生まれてくる前に神さまストアに徹夜して並んだ。あなたがプレイするオリジナルの「人生ゲーム」を購入するためにね。でもって現在が、そのプレイ中だ。
 で、どうよ……あなたの人生は大変かい? むつかしいかい?
 きっと困難だから、この本を読んでいるのだろう――それは良かった。あなたの買った人生ゲームは「クソゲー」でなくアタリだったわけだ。
 ホント、おめでとう!

 そこでだ。あなたの人生が困難ということ――それは、あなたの人生ゲームの基本設定にほかならない。つまり、あなたの暮らす世界の設定が、そうなっているということだ。

 ……中略……

 じゃあ「強者には都合のいい設定なのか?」というと……実はそのとおりなのだ。この世は、弱者に厳しく、強者にやさしいようになっている。
 もちろん個人設定は別だ。金持ちや権力者であっても、重篤な不治の病であったり、家族から犯罪者が出たりはする。でもこれは弱者も同じだ。しかし強者は、貧乏人よりは自己負担の大きい高度医療にかかれるし、辣腕のベテラン弁護士を雇うこともできる。やっぱり、強者有利は変わらない。

 だから、あなたの人生ゲームが高級品であればあるほど、基本設定はいうに及ばず、個人設定のほうも厳しい内容になっている。なぜなら、あなた自身が易しいゲームでは飽きたらず、上級の困難ゲームを購入したからだ。

 ……中略……

 ところが、このゲームは普通のテレビ(コンピュータ)ゲームとは、ちょいとちがう。
 なんと、あなた自身が主人公となって、ゲームの中に入ってしまうタイプのものだ。そのため、自分がプレイヤーであることが分からない。自分が選んで買ったゲームであることを忘れてしまう。その記憶を封印されてしまっている。
 それで「自分がうまくいかないのは、世の中のせいだ」と感じてしまう。でもって、そのとおりなのである。だって基本設定だからね。

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 じつをいうと、このことを二千五百年もむかしに提唱したひとがいる。そう、釈尊(お釈迦さま)だ。その教えを発展させた経典が残っている。法華経である。

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 先に述べた「人生は所詮、ゲームである」というテーゼを掲げたボクは「だから、遊び倒して人生を楽しまないと損だよ」と、ほうぼうで自説を展開していた。

 ……中略……

 ところがである。その後、約一○年間、いろんな勉強をしていくうちに同じことをいっている書物を発見した。それも、約一五○○年もむかしの代物だ。
 ここでは、その話をしよう。

 あなたは「観音(かんのん)」さまを知っているだろう?
 そう、仏法の教えに登場する「観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)」とか「観自在(かんじざい)菩薩」とか呼ばれる菩薩のことで「聖(正)観音」や「千手観音」「馬頭観音」など……あなたも、いろんな仏像や仏教絵画を眼にしたことがあると思う。
 また「菩薩」のほうも聞いたことがあるだろう。ほれ「あのひとは菩薩のようなかただ」なんていうだろ? この場合の「菩薩」は「やさしい」とか「温和」「親切」「慈悲深い」などの褒め言葉として使われる。

 それもその筈で、大乗仏法では「菩薩は成仏(悟りを拓くこと)を約束されているのだけど、一般衆生を救済するため、この世で大活躍する存在」とされているからね。つまり「ひとびとが成仏するのを強力に支援する」わけで、まさに仏法版のスーパーヒーローだ。

 ……中略……

 観音さま以外の菩薩には、地獄で苦しむ衆生を救ってくれる地蔵菩薩なんかが有名だ。この地蔵菩薩さん――正体は閻羅(えんら、閻魔のこと)さまなんだけど、地獄で審判をしている時の怖い印象とはおおちがいで、温和な慈悲深げ満点の姿になる。
 なぜなら、この世にレスキューに来ている救世主モードということだから。だって地獄には罪深き亡者が殺到するので「これはいかん。ならば、全地獄門前裁判所でのんびり待っていないで……この世に出張して、亡者になる前に救ってしまおう」という算段で現世にやってきた。
 それで一般的な仏像や仏絵の姿は「比丘(びく)立像」といって、遊行僧(お坊さん)が立っているスタイルが多いため、よく知られる怖い閻魔さま像とは似ても似つかないタイプになっちゃった(苦笑)。
 また、この立像のイメージから飛躍して、水子や幼くして死んでしまった子どもの霊魂を救ってくれる存在となっていったようだ。

 それから、かの宮澤賢治が大ファンだったことで知られる常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)なんかもそう。

 ……中略……

 つまり、一所懸命ひとに尽くすものの、なかなかうまくいかなかったりしてオロがきたりするので「ひとから木偶(でく)の坊と呼ばれ」るような――極めて人間的な菩薩さんなのである。

 まだまだ、いっぱいいらっしゃる。

 ……中略……

 ここらで話を戻そう……
 さて観音さま――もともとは大乗仏典ののひとつ、法華経の中に登場する。正確にいうなら、訳僧として高名な鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『妙法蓮華経』の中に描かれているのだ。この『妙法蓮華経』には、序品(ほん――章立てのこと)第一からはじまる、全部で二十八の品があって、その観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)第二十五に登場するわけ。
 経典の中では、観音さんについてのキャラクター解説や行動、所在、役割、等々が詳細に述べられている。ところが、その守備するところが極めて広範囲に及ぶため、ひとびとはとてもありがたがったので、やがて章が独立して『観音経』となった。
 その『観音経』に「遊於娑婆世界(ゆうおしゃばせかい)」というところがある。そのまま訳すると「娑婆世界で遊んでる」となるのだろう。娑婆というのは、いまボクたちが暮らしているこの世界だ。ほれ、ヤクザ映画などで、塀の中から出てきた連中が「娑婆のメシは旨いなあ」なんていっているだろ(笑)。
 もちろん主語は観音さまだから、いま風に超訳すると「観音さまは、この世で遊びまくっている」となるわけ。この娑婆世界に対するのが極楽世界とか寂光(じゃっこう)世界といわれる仏界で……あの世のことである。

 なんでまた観音さまは好きこのんで、この「うまくいかない世の中」に遊びに来たんだろうか?
 それは、あまりにも暇だったからだ(笑)。

 だってさ、あの世は仏さまの世界だぜ。いくら「仏になることが保証されている」といっても、観音さまは菩薩だから、まだ仏じゃないわけ。かといって仏界は完全無欠の世界だし、無量寿仏さんが和尚として取り仕切っている。跡継ぎといっても、まだ修行中の分際では、和尚の方針は守らないといけない。
 さらに困ったことに――無量寿仏和尚は「みんなが成仏するまで現役続行」と宣言して、引退はまだまだ先のこと。順番が詰まってる。そらあ、暇だわな。
 そこで観音さまが、
「和尚。こっちの世界は平和すぎて、いっこうに修行が進まないんで、ちょっくら、あっちの世界に修行にいってきまっさ」
 というと和尚は、
「そうか。ほな、がんばれよ」
 てな感じだろうか。

 ……中略……

 だけど、この世で遊ぶためには、ひとの姿でないといけない。役柄も設定しないといけない。どんなシチュエーションかも大切。そこで『観音経』には、観音さまの変化である三十三身が記載されている。ある時は王さま、ある時はお金持ち、またある時は僧侶、尼僧、在家信者(仏典だからね)、してある時は貧乏人……という具合に。
 こうなってくるともう、なんでもアリで――老若男女・みんながみんな、ということになる。つまり、この世で暮らす人間が全員、網羅されるわけ。

 当然のことながら、この秘密――裏のカラクリを見抜き、解読した聖(ひじり)はあまたいる。
 たとえば江戸中期に曹洞宗の僧侶・天桂伝尊(てんけいでんそん)が『般若心経止啼銭(したいせん)』で――

 観自在とは異人にあらず、汝、諸人是れなり。なにをか観自在といふ。眼を開けば森羅万象ありありと現れ、耳に通ずることは無量の音声(おんじょう)間断なし。六根皆な是の如く……<中略>……六根共に互いに融通して礙(さえぎ)ることなし。如是(かくのごとく)に観ずることの自在なる故に、各人の自己を指して観自在菩薩といふなり。

 と述べている。

 また臨済宗の禅僧・盤珪永琢(ばんけいようたく)も――

 観自在菩薩、自らのことなり。自らならば、なぜ観自在ぞと云う中に眼を開けば、山河草木、青黄赤白黒、大小方円きらりと顕れ、耳に通すること千万の音、六根皆その如く……<中略>……少しもたかひに、さへることなきなり。是れ観ずることの自在なるゆえに、人を指て観自在菩薩と云うなり。

 と『心経抄』の中で、より平易に分かりやすく解説している。

 ……中略……

 なかなか、やるもんだ。

 あれれ? どこかで聞いた話だ。
 そう、まさしく「人生ゲーム」なのである。はい、そのとおり。大乗仏法の法華経などからすると、あなたは「この世に遊びに来た観音さま」にほかならない。同時にボクも、友人知人親戚縁者も、となりのおっちゃんも、向かいのおばはんも……そうなのだ。
 そして「ままならないこの世」で、懸命にプレイ中なのである。
 う~ん、恐るべし、大乗仏典! ボクより遙かむかしに「人生ゲーム」のアイデアを発表していたとは(笑)。

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 分かったかい?
 あなたの人生が思いどおりにならないのは、なんでも思いどおりになったらゲームがつまんないから、わざわざむつかしいほうを選んだだけのこと。
 ただ難儀なことに――それを忘れちゃってるわけさ。