飛び出した一歩が触れたのは、冷蔵庫の奥で忘れ去られたアイスノンみたいに冷たいアスファルトだった。せめて雪が降っていれば様になったのにと思いながら彼女は頬を拭った。雑誌で一目惚れした勢いで買った黒いコートは、丈が長過ぎてかわいらしさの欠片もない。
誰も追ってこないことなんて彼女は最初から知っている。
吐く息は、コーヒーにいれた螺旋のミルクよりも白く、手袋をしていない手はオイルのきれたロボットみたいに不自然に曲がった。このままここに立っていても、状況は変わらない。そう思った彼女は駅に向かって歩き始めた。悲しいことなどなにもない。そういい聞かせながら彼女は軽くスキップをした。泣き顔にスキップなんて、涙を頬に描いたピエロと同じじゃないかと思いながら、彼女は泣いた。
頭の中には脳みそのかわりにテディベアから抜き出した綿が入っているんじゃなかろうかと思わせるような女の子。舌足らずに話し、小さな段差に躓き、すべてのものにむかって「可愛い」と繰り返す。彼女にとって、演じることは苦痛ではなかった。いくつもの自分の仮面のうちの一つだった。演じれば演じる程、それが仮面なのか本当の自分なのかわからなくなっていったけれど、それでも彼女は幸せだった。可愛がってくれる手は大きく、頭を撫でられる度に首を傾けた。
けれど同じ役者ばかりでは、聴衆も飽きるらしい。いくら彼女が上手く演じてみても、可愛がってくれた人は離れていった。手首は痛んで、彼女は少し笑った。最後の夜には、感動も情熱もない。あったのは、バイバイではなくてさようならと言い残してきた彼女の言葉。
片手に持ったヒールを揺らして、彼女はスキップを続ける。ヘンゼルとグレーテルみたいにパンくずを道にまく必要もない。彼女がこの街に帰ってくることはもうないから。