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昨日に引き続き「因縁論」です。
縁も因の一種なんじゃね?という点について、今の理解を記載します。拳友に教えてもらったものです。これも縁ですね←
因とは、縁とは
さてと、こんなお話を考えましょう。
「学校で生徒同士の喧嘩が起き、生徒Aが生徒Bを手元にあったカッターで斬りつけてしまった。その後、学校は再発防止として『カッターの持ち込み』を禁止した。この学校の対応についてどう思うか。」
カッターによる斬りつけの再発を防止するのであれば、この学校の判断は正しいのでしょう。カッターがなければカッターで斬りつけられないわけですし。少なくとも学校の中では。
しかし、これは問題の本質を解決しているのでしょうか。問題の本質は「生徒間でのいざこざ」であり、それが暴力行為に発展してしまったというものです。カッターが手元に無くとも、手元にトンカチがあったらトンカチで殴っていたのかもしれません。
こういう状況を因縁説で説明しようとしたら以下のようになるのではないでしょうか。
「生徒間のいざこざ」という因に対して、「その生徒の手元にカッターがあった」という縁が加わり、「生徒Aが生徒Bを斬りつける」という残念な果が生じた。と。
縁をつぶすことで果を未然に防ぐというのも一つの手ですが、本質的な解決には至らないということがわかります。昨日の教範の例で言うと「依然として種が残り続ける」のです。
こう考えると「縁も因の一部なのでは」という考え方を根底から覆すほどでは無いにせよ、縁と因は明確に違う部分が少なうkとも私には感じられました。
また、何らかの「因」と「果」が結び付くとして、「縁」のすべてを明示的に挙げ切るのは通常困難なものと思います。
上記の例でも、おそらく他の縁(けしかけるまわりがいたとか、ヒートアップしちゃう何かがあった、とか)が色々あってのものなのかと思います。
言葉にできない無数の縁
この点をあまりに強く主張すると、そもそもに「因果関係」自体が変になってしまうのですが、さりとてこの世の因果関係はそんなにシンプルではありません。
「手を離したら、物が落ちた」ぐらいに直接的なものであればシンプルなのかもしれませんが、これだって上昇気流の有無や、地球という重力圏の中でのお話だと言い張れば、いくらでも複雑にできてしまいます。
風が吹けば桶屋が儲かる的なものといいますかバタフライエフェクトと言いますか、何か小さなものが思いもよらぬところで作用することもあるのかと思います。
因果があるようでも、それが実現するには多くの小さな間接的な因(縁)がたまたま揃った結果であり、実現しなかったとしたらそこには縁が足りなかったのかと思います。
何事も「因と果」単独でなされるのではなく、小さな縁から大きな縁まで、もろもろの影響を受けながら実現(あるいは非実現)しているのではないかと考えると、単純な出来事の中にも目には見えない大きなうねりのようなものを感じざるを得ません。
「単独では何事もなされていない」という実感の上に、我々は「諸法無我」を、金剛禅的には「自他共楽」を感じるわけですね。
縁が満ちた時に、いつでも発芽できるような良い種「善因」をたくさん持っておきたいものです。
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