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金剛禅門信徒として避けては通れない「因縁論」について本日は思うところを書きます。

 

多分長くなるので、前半で教範等の記載について確認し、とはいえわかりにくいところもあると思いますので、後半で私なりの理解を記載します。

 

因縁とは

 読本でもなんでも「因縁」とはなんかネガティブなイメージがある言葉だけど本来はそうではないって話から入ります。

 

聞き手の先入観に寄り添って、認識のすり合わせをしていく良い導入ですね。

 

ネガティブなものとしては

 

  • あいつに因縁を付けられた
  • 先祖の悪因縁が〜
  • あいつとは因縁がある
みたいなものです。ビーパップハイスクールの世界ですね。
 
教範にはこのように記載されています。
 
『「因」とは原因であり、「縁」とはゆかりのことである。つまり一つの結果には「必ずそうなるべき原因に、そうならせた縁由が加わって、そうした結果を生む」という意義をあらわした語である。」
 
「因果関係」と言うと原因と結果の関係ですが、そこに「縁」が加わると言うことが記載されています。
 
私は昔こう思いました。
 
「ん?縁も因(の一つ)なんちゃうんかこれ?」
 

 

 教範の注記に、縁についての補足があります。

 

 

 

縁の説明と因果律

注記の記載は以下のとおりです。

 

「縁」というのは、原因をたすけて、結果を生じさせる間接の力である。

 

原因ではなく、「助ける関節の力」とのこと。まだよくわからんですね。

 

そして例が続きます↓

 

例えばここに一粒の種があるとする。この種を机の上か或は金庫の中にしまっておくと、その種は、何年たっても種のままである。然し此の種をひとたび適期をえらんで土中にまき、水や日光や肥料を与えて、育てると云う「縁」の力を加えると、これが立派に成長する。つまりこの状態を説明するために「因縁説」を説いているのである。即ち一粒の種が成長し、花を開き実を結ぶと云う結果は、必ず因+縁の和合によって始めて出来ると云う真理を説いているのである。

 

これは私は当時全く理解できませんでした。今も疑問が残りますが、種だけで発芽すると思えば種が因であり、「因だけじゃ結果は生じないぜ!そこに必要なのは縁なのさ!」っていうのはよくわかるんですが、これは「因=種」と解釈した場合であって、「因として捉えたものが足りてなかっただけなのでは?」と思ってしまいました。必要条件が足りてないよね?っていうイメージです。

 

そしてこの注記の結びにはこう書かれています。

 

我々は、ともすれば西洋流に因果関係のみを重く見る危険がある。注意しなければならない。

 

いや、だから結局縁も因の一部なんちゃうんかと。。。

 

とにもかくにも、因と縁の切り分けは、結局「主因」と「副因」と捉えるならば、これは因果関係に過ぎず、開祖が教範で注意喚起しているスタンスになってしまうわけです。

 

ここについて、現在の私の理解は次回書きます。

 

金剛禅の中で、「徳」と並んで道徳的なことを明示的に説く部分が因縁論には出てきます。

 

 

 

 

善因善果・悪因悪課

教範ではあらゆる果にはそれをもたらした因があり、あらゆる因は未来の果に結び付いていくということを説きます。

 

それはまぁいいんですが、突如このような一節が出てきます。

 

人間は善因善果、悪因悪果の法則を信じて精進すべきことを教えているのが仏教の因縁説なのである。

 

突如として「善悪」という概念が出てきて、なおかつ「善因には(悪果ではなく)善果が、悪因には(善果ではなく)悪果が引き起こされる」と何の根拠もなく言い出すわけです。なんで?こじつけが過ぎん?

 

開祖もこじつけ感を感じていたのか、「善因善果、悪因悪果の法則を『信じて精進すべきこと』を~」と、語気は弱くなっています。このような法則が”存在するのである”ではなく「この法則を”信じて”精進すべき」はだいぶトーンが違います。

 

正しいかどうかはわからないけど、これを信じて頑張ることを求めているわけです。

 

ですが、ここに大きな違和感があるかというとそうでもなく、「道徳的行いを使用ではないか」ということを伝えたいがための人道的スタンスなのだと思います。

 

そもそもに、「善と悪」が何によって規定されているかすらわかりませんし。

 

 

長くなってきたので一旦切ります。

 

 

 

 

 

 

 

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