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本日は私の思う「信仰」について軽くお話ししたいと思います。
金剛禅の信仰の対象は「ダーマ」という真理や法則と説明されるものです。
ダーマを信じてるんですか?という問いが稀に出てきますが、信じるというより「疑うという観念すらもない」というレベルなのかと思っています。
信じる、信仰するという言葉すら生ぬるく、逆に言えば信じる・信仰するという言葉には違和感すらあります。
以下、というか全部私見です。
「信じる」には疑いが含まれる
信じるって言葉を使う時ってどういう時でしょうか?
「あなたは神を信じますか?」と問うときでしょうか?付き合ってる人が、異性と2人で仲良さげに居るところを見た時「お前を信じるよ」という時でしょうか?
私の感覚では、この「信じる」は「疑う気持ちに蓋をする」に等しいと思えます。特に後者の例ではそうですね。
可能性としてはあり得るけどそちらの方は考えない、という感覚です。
ダーマ信仰は、そういう「自分の意思」はもはや関係のないものと捉えています。
信仰と怒り
人は当然すぎるものほど、否定されると怒りますし呆れます。
天動説・地動説の入れ替わりの時代から、天動説の人は「地球が回っている」と言われたら怒り狂い、ガリレオを処刑しました。地動説である今の時代に生きる我々は、逆に天動説を主張されると呆れてバカにするのかと思います。
さらにこの天動説と地動説の入れ替わりも、地動説の人が「そうか。実は動いてたのは地球だったのか」とみんなが思って入れ替わったのではなく、地動説を信じてた人が全員亡くなることで入れ替わった、という話を聞いたことがあります。
宗教ではなくとも、これは信仰と呼ぶに相応しいほどの強さで信じていたのだと思います。理屈では覆らないほどに。
もっとも「彼女が男と浮気してたで」「いや、それは浮気やろ」と言われても怒りますが、それは図星をつかれた怒りであって別物かと思います笑
信仰というにはあまりにも身近なもの
ダーマ信仰とは「信じるもの」ではありません。自分が寄って立ってる何かであり立脚点です。
もしかしたら、体を支えてくれてる地面の存在かもしれませんし、呼吸を支えている空気の存在かもしれません。栄養の源泉たる食事を織りなす食物連鎖かもしれませんし、地球にエネルギーを伝える太陽光の存在なのかもしれません。
当然すぎるので「信じる」という言葉は似つかわしいですが、それこそが我々のダーマ信仰であると思います。無理をして信じるものではなく、「当然過ぎて疑いようのないもの」があるだけ。
だから「ダーマ信仰をしてますか?」と問われると驚いてしまうし戸惑ってしまう。
そんなものを信じてどうするの?という問いはあるのかと思います。それはそう。
まずは「現実を見る」ということなのかと思います。現実を見た上で、その上で私たちの修行は始まります。おかげや祟りのようなものは「当然」ではないのです。そんなものは我々は見ない。
そして、当然すぎるものの中には「鍛えれば育つ」という『人間の可能性』も含まれます。
前にも書きましたが、バスケのボールをドリブルし続ければ、人間のドリブル能力は高まります。繰り返してるのだから当然です。ですが、ボール自体のドリブル能力は高まりません。同じく繰り返してるのに。人間には物にはない可能性が秘められてるのです。
我々は当然なものを当然と捉え(信仰し)、自分や他人の可能性を信じて修行し指導する宗教団体です。
無理して信じる必要がないというのは、ありがたいことですね。
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