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日本人は永らく『総中流社会』で一定の幸せを享受してきました。その前もムラの中で生き、村八分などを恐れて生きてきたのかと思います。さらにさらに前には「和をもって尊しとなす」というものもあります。
どこの国にも和を説く話はあるんでしょうけど、ある種過剰に機能してきて国が日本なのかもしれません。各国間の気質を表した笑い話でも、「日本人を動かすには『みんなやってるよ』が一番効果的」みたいな話もあります。
私は受験勉強を通してそんなことを強く思いました。
頭が良くなりたくない人はいない
みんな頭が良くなりたいんです。「金と知識は重荷にならぬ」という言葉がありますが、基本的に損はないですからね。
ではそのためにどうするかと言えば、まぁ勉強が王道なわけですが、見てて不思議だなと思うのです。
受験は競争的側面があります。
同じ学校を志望する中である程度(定員人数内で)上にいないといけない。「当日の出来」というボラティリティを考えれば考えるほど、さらに上にいないといけないんです。
なのに、見てるとどうも「まわりと同じ」が能力の向上より優先される。
みんなと同じ時期に「そろそろやらなきゃ」と勉強をし始め、みんなが塾に通ってると聞けば「じゃあ自分も」と塾に行きみんなと同じ授業を受ける。1日の勉強時間も概ねみんなと同じ時間。
それ以上はやりたくないので「置いていかれないために」という力学もあるんでしょうけど、私が見てる限り「ガリ勉と思われるのが嫌」という力学が強く働いてるように見えました。
すると、受験勉強開始前の全体順位が、みんなが同じように勉強するので(平均点的なものは向上するんでしょうけど)、順位は概ねそのままスライドする。
そもそもが志望校の決定方法にも現れてます。
スタートから自分を諦めてない?
志望校の決定は、往々にして自分のレベルに応じて決められます。
大学受験なら高二の終わりあたりなんでしょうか。全国模試とか受けて、その偏差値を見て「このレベルなら大体あの辺」と決める。
これって「このままいけばここに落ち着く」という予測ではないのか。もちろん行けそうな大学の中から「志望」するんでしょうけど、不思議なことに「敢えてレベルを下げる」選択をする人はいないわけです。
行ける範囲でもっともレベルの高い所に行きたいと思う。にも関わらず、そのレベル感の志望は「現状のレベル」に合わせる。
これは志望と予測のどっちなのか。。。
やっぱりみんな「そこそこ」がいい
今、学生の門下生にも私が勉強の全面サポートをするけどどうするか聞いていますが、そもそもこれに手を伸ばせること自体が才能です。
人と違った路線を走るのはとても怖い。
不遜な顔を言いますが、過去同情の後輩で勉強を教えた人は基本的に国立に行ってるので、勉強を教えるのにはそれなりの自信があります。
集団授業は私は向いておらず、個々人の考え方の癖に合わせてじゃないと効率よく伝えられないので、「うちの門下生」という限られた椅子の中でのお誘いな訳ですが、やっぱり覚悟が必要なんです。
勉強に対する覚悟もそうですが、こんなおっさんに教わると言う「普通からの逸脱」の覚悟といいますか(教え方は至って普通と思ってます)。
普通を求める気持ちが調和を生みます。必要なものと思います。ですがそれの度が過ぎると、まわりの目を気にしながら生きていくだけの人生に陥るのではないかと思います。
SNS時代になってから、その傾向はかなり強まったと思います。日本人は情報が増えれば増えるほど、あらゆる面での『普通』に留まろうと身動きできなくなるのかと思います。
わかりやすさから勉強と、門下生の話を引き合いに出しましたが、論点はそこではなく「『普通』であることも幸せだけど、本当の『自分の幸せ』はどこにあって、その幸せを得ようとしたとき『普通であること』はプラスなのかマイナスなのか、よく考えたいですね」というお話でした。
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