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「○○すべき」っていう言葉の扱われ方の変遷って面白いなと思っています。

 

私が小さいころ・最近・今後の予想について書きたいと思います。

 

言語学者ではないので、私が生まれる前のことはわかりませんが、それでも結構変わったなぁと思うんです。

 

私が小さいころ

私が小さいころ、つまり昭和末期~平成初期でしょうか。

このころは、道徳的な話でよく使われていた言葉だったように記憶しています。

 

「ご老人には席を譲るべきだ」「出されたご飯はすべて食べるべきだ」みたいな。

 

自分の強い意見を伝える言葉であると同時に、目上の人から規範を伝えられる際によく使われていたイメージです。

 

 

 

 

 

最近

平成中期ぐらいからでしょうか。インターネットが広まって、特にSNSでいろんな人がライトに意見交換ができるようになったあたりからだと思います。


「〇〇すべき」という言葉は人に対して使うべきではない、という風潮・空気感?が出てきたように思います。

 

端的に「価値観の押し付けだ」ということですね。

 

業務上の関係とか、指示系統がしっかりしているところではそうではないのかもしれませんが、そういうケースでも

「○○すべき」というべき論ではなく、「このタスクをお願いね」という具体的指示になるのかなと思います。

 

自分に対して「よし、〇〇はすべきだな。」と言い聞かせるのはありますが、他人に対しては最近はとんと減っている気がしています。気のせいかもしれません。今ググってもそういう話は(あまり)出てこないので。とはいえ、この論調で押し通させていただきたいと思います(笑)

 

昨今はさらに多様性の時代と言われ、いろんな価値観を認めようという機運が高まっています。

 

個人的には「『○○すべきだ!』と自分の意見を押し付けてくる人」という存在も認めてあげるのが多様性であり、押し付けられてもそれを聞くかどうかは個人の判断である、というのが本来かと思っていますが、世の中なかなかそうはいきません。

 

他人に強く干渉することが忌避される風潮はあるのかなと思っています。

 

 

 

今後の予想

他人への干渉は忌避される、とはいえ、全く干渉しないことはできません。

 

z世代と呼ばれる人たちへの指導をどうするのかと、多くの会社で中間管理職の方が悩まれています。

 

そんな風潮の中で、半ば指導をあきらめたような話もいろいろ耳に入ってはきました。でもそうするとどこまでも個人プレイになりますし、実際にやって欲しいことが成り立たない。

 

何より人的つながりがあまりにも希薄になるのは、少し寂しいと思ってしまうのが人間なのかと思います。

 

今後、時代の揺り戻しで、また「こうあるべき」という論調が復活する可能性もないではないです。でもそうなるとしてもだいぶ先なのかと思います。


できるなら「こうあるべき」と言う人が、他人に押し付けるのではなく、まわりから「どうすべきだと思いますか?あなたの意見が聞きたい」と聞いてもらえるような自分になりたいものです。


そうなるためには、自己の日頃の行動や、曖昧ではありますがその人の『徳』のようなものが必要になるのかと思います。


少林寺拳法のリーダーはそのようになれ、と創始者である開祖、宗道臣は願っていたのではないかと私は思います。



 

 

 

 

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