松戸上本郷道院のブログへようこそ!
少林寺拳法でも仕事でも、その分野の「詳しい人」という人がいます。
パソコン関係とかがわかりやすいでしょうか。何かトラブルがあったら「あの人に聞くといいよ」と言われちゃう人、いますよね。
どうしたら「詳しい人」になれるんでしょうか。逆から言えば「詳しい人」はどのようにして詳しくなったのでしょうか。
最初から詳しい人はいない
当然ながら、どんな分野でも最初から詳しい人はいません。詳しくなるためには、いろいろ調べ物をし、いろいろな情報を入手しているはずです。
そういう過程で、どんどんと詳しくなっていく。そういうものだと思います。
では、最初はみんな詳しくないのに、なぜ詳しくなった人とそうでない人が分かれるんでしょうか。
単に、その分野が好きだった人が自分でどんどん調べて詳しくなっていくんでしょうか。
そういうこともあると思います。
でも、往々にしてそればかりではない、もう少し言うと、多くの場合において「好き嫌い」以外の要因が強く影響すのではないかと思うのです。
自分で調べるか、他人に調べてもらうか
詳しい人がまわりにいたら「その人に聞けば楽だな」と思います。調べるのめんどいので。
でも聞かれた人は本当にそれをすべて知っているのでしょうか。パソコンや、私が業務でよく使うエクセルも、仕様書なんてものはないですし、その機能の全容を知ることはおよそ不可能です。知らないことがあるのが当然です。
知らないことを聞かれてしまった「詳しい人」はどうするのでしょうか。
「いや、それはわからないや。ごめん」と答える可能性もあります。ただ、それが繰り返されるとまわりからはだんだんと「あまり詳しくなかったな」と思われるのだと思います。シビアですね。
詳しい人、と思われ続ける人は、おそらく聞かれた内容を調べるのだと思います。本来トラブルに直面した人が自分で調べることを肩代わりするわけですね。それで調べた内容を教えてあげる。そうすると「やっぱりあの人は詳しいな!」となって次の質問が来る。見方によってはたまったもんじゃない。負のスパイラルとも言えなくもない状況になります。
ですが、その過程で確実に知識は蓄えられて詳しくなっていくわけです。
「誰が調べるのか」という観点でいうと、その役割が集まってくる人がいるし、その役割を放棄し続ける人がいる、といえるのかもしれません。
もちろん、自分でどんどんと課題を設定して、聞かれもしないのに調べ続ける「本当に好きな人」もいます。これは「好きだから詳しい」という例ですが、「天然の詳しい人」と「人工的な詳しい人」と考えると面白いですね。
「詳しい人」のメリット
詳しい人のメリットはたくさんあります。
知識・情報が入ります。聞かれたこと、および調べた内容はもちろんのこと、聞いてくる際に質問者となんらかのコミュニケーションが必然的に発生しますので、周辺情報も手に入ります。すごいことです。
そして、助けてあげたということで人望も得られるのかと思います。
また、メリットとは言いにくいかもですが、調べる際に「究極的に、わからなくても自分は困らない」という心理的な安全圏を確保しながら調べられることは非常にいいと思います。質問してきた人は、わからないと困るわけです。ですが質問された人は人助けできる/できないの違いだけで、わからなくても自分が損害を被ることは少ない。これはサラッと書いていますけど「悲壮感とともに学ぶのかそうでないのか」というのは大きい差だと思います。
一方でデメリットは「調べるのがめんどくさい」「時間がとられる」などでしょうか。断然お得かと思います。
受験勉強での思い出
私は比較的勉強が好きでしたので、当時は意識的ではなかったですが質問が集まる立場にいました。
これは今思うと非常にありがたいことで、同じ高校・塾(学力が大体同レベル)の人間がドツボにハマるような「一癖ある問題」が自動的に運ばれてくるんです。
考えてみてください。「もうすでに十分理解している問題を解いてる時間」、これは自分の学力向上にどれぐらい貢献している時間なんでしょうか。もちろん、数学でいえば計算力の向上であるとか、暗記物であれば記憶の定着という効果はあります。ですが、他の人との差をつけるような「みんなは解けないけど自分は解ける問題」みたいなものの拡充には繋がりにくい時間と言えます。
「みんなは解けないけど」とか「みんな一回はつまづくけど」といった問題が、口を開けてれば与えらえる。ありがたい。
問題集一冊回そうとしたときに、そのうちのほとんどは「普通の問題」なので、3周もやるとネタ切れになります。「解けることの確認」や、それに伴う「自信がつく」という効果はありますが、「解けない問題を解ける問題にする」という効果には断然かないません。
そして、自分が既に解ける問題がたくさん集まってきたとしても、質問者とコミュニケーションを取りながら教えることで「みんながどういう思考回路で、どういうところでつまづくのか」というメタ的な学習になります。この経験が今道院で学生に勉強を教える際に非常に役立っています。
成功談ばかり書きましたが、仕事で落ち込んでいた際、頭が壊れていまして自分で考えられない・頭に記憶が定着しない時期が長くありました。その際は他の人に聞いてばかりで、教えてもらう内容も「結論だけ教えてくれ」という状況でした。自分の頭が機能してない情けない状況でしたので。その頃は知識が身に付かないだけでなく、当然に信頼も損ないました。当然ですよね。
学生の門下生には「質問が集まるようになれ。せめて友達に『わからないことがあったら一緒に考えるよ』と言え」と言っています。「この人、聞いてい人なんだ」と思われれば質問は集まりだします。その上で、あとは責任感を持ってしっかり調べていれば、あとはもう言うまでもないですね。
天才ではないわけだから
この「質問が集まる人になる」という方法は、私は勉強においてかなり最強の方法だと思っています。
天才は別です。天才は自分でどんどん未踏の地に踏みいって、どんどん成果を上げられるのかと思います。
天才でもない限り、経験から学びますし、その経験の量が増えるのです。
また、質問者がよほど横柄でない限り質問者も一緒に考えてくれます。これも心強いですね。みんなで考えたらいいんです。
そして、やはり天才でもない限り、個人の知識・知恵は集合知には敵いません。突出した人の意見は常人の間で議論された最良の結果を上回るかもしれませんが、常人であれば基本的には多くの意見を推敲して考えた方が妥当なものにたどり着くはずです。
一人で悩むのではなく、みんなで悩むことができる場があれば、こんなにいいことはないですよね。
個人的には、ChatGPTなど「聞きやすし、何度聞いても怒らないし、いろんな資料を調べてくれる」ツールができたことは、個人単位の学習においては非常に有益なことと思います。
一方で、今まで「周りの人から質問が集まっていた人」が少なくなることに危惧を感じています。人に聞かなくてもAIに聞けば教えてくれるんだからそっちに聞くよ。となるのかと。そうすると今まで大量に生まれてきた「人工的な詳しい人」がかなり少なくなってしまうのではないかと思います。
自分のためと他人のため
どうでしょう、詳しい人になるために質問が集まるような態度でいること(聞いていい人だと思われること)、質問が集まったら頑張って調べること、メリットが多いように思いませんか?
”自分の為”に質問を集めたいという欲求が、相手の質問に答えてあげるということで”他人に為”にもなる。
それを繰り返すことで、より自分が成長し、他人の為にできることが増えていく。
自己確立と自他共楽のどちらに属す話かわかりませんが、その境界上にある「誰も損をしない状況」なのかと思います。
少林寺拳法で学んだ精神性を、学校や職場で発揮してみんなが幸せになるといいですね。
松戸上本郷道院は2025年度上期新入門を大募集中です!興味を持たれた方はぜひご連絡ください!