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いつぞやかの武専で、派遣教師の方がこんな法話をしてくれました。
元門下生に「愛」を大切にする宗教の方がいらっしゃった。お子さんと一緒に少林寺拳法をやっていたとのこと。
その人は「力愛不二」の教えについて「どうしても『力』は不要だと思ってしまう」とのこと。
そう思うに足る経験をお持ちで、海外で暴漢にナイフを突きつけられたそう。その時に「あぁ、私は今日この人に刺されて死ぬために生きてきたのだ」と思って「どうぞ、お刺しなさい」と言った所、相手は刺さずに去って行ったとのこと。壮絶ですね。。。
究極の『愛の人』だと思います。
そういう人に「力の必要性」を説くにはどうするか、みたいな話だったかと思いますが、そのエピソードが強烈すぎて、その後の論調を詳しくは思えていません。ごめんなさい。
その方はもう亡くなられてるということで、お話を聞くことは叶いませんが、すごく聞いてみたいなと思うことがありました。
私がその人に聞いてみたいこと
自分が殺されてしまうことすら、「定められた運命」と思ったのか「相手への献身」と思ったのかはわかりませんが、受け入れられるのはすごいことです。
私がそんな方に聞いてみたいのはただ一つ。想定される答えは概ね2パターンと思っています。
聞きたいことは「そのナイフが、あなたではなくあなたのお子さんに向いていた場合も『あぁ、この子は今日この人に殺されるために生まれてきたのだな』と思えますか?」ということ。
それに対して想定される答えのうちひとつは
「思えるわけない。その時は身体を張ってでも子どもは守る」といった具合の話だと思います。
そう思うのであれば、少なくとも子どもが逃げるまでの時間犯人を足止めできるぐらいの力は必要ではないかと私は思います。
想定される答えの二つ目は
「はい。息子もきっと受け入れると思います」という類の答え。こんな答えはしてほしくはないと思いますし、もし万一このような答えが返ってきたら、、、その人は本当に『愛の人』なのでしょうか。少なくとも私には理解できないです。
「相手が不法を犯す前に止めてやる力が必要」という旨の言葉を少林寺拳法の創始者である宗道臣も言っていました。
やはり私は力は必要だなと思っています。
こういうことを考えるきっかけをいただけただけで、その日の法話は私にとってすごく価値がありました🙏
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