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少林寺拳法では二人一組で攻防演練する「組演武」というものがあります。

また、1対多で、多人数を相手にした攻防を学ぶ「衆敵闘法」も、一応あります。

他には、一人でシャドーボクシングのように技を練る「単独演武(単演)」なんてものもあります。

 

本日は、法話について思うところを書いていきます。

 

 

法話の重要性

法話は少林寺拳法の大切な修行です。非常に重要といえるでしょう。なぜならば言葉により人のやる気を引き出し、動機づけを与えるという指導者に欠かせないものだからです。

 

少林寺拳法の開創の動機としても、「人づくりによる国づくり」として、人の感化から始まりました。ただ、口だけで言ってはいけないので、若者が熱中できる拳法を用いて人を集めましたが、創始者である宗道臣は「拳法はエサである」と喝破しています。

 

誤解を恐れず言えば、法話がメインで、拳法はエサという構図であるとすら言えます。(もちろん少林寺拳法の主行は易筋行(拳法)です)

 

ですが、その法話を行うのはとても心理的なハードルがあります。

 

 

法話が難しい理由①

多くの場合、法話は道院の中で「道院長から話を聞くもの」になりがちです。受け手ばかりで話し手になることは少ない。

 

この構造について擁護する立場としては、修行が進んでいる先達者(道院長)から学びを得るスキームなのだから、一方向になって仕方ないというものでしょうか。法話は単なる世間話ではなく、やる気を引き出すものであるとすれば、圧倒的熱量を有した道院長が、そうでない人を導くためのものだというもまぁうなずけます。

 

一方、この構造を否定する立場としては、易筋行が攻守バランスよく組むのに対して、法話になると受けしか行わないのは「修行を片寄らせないこと」という修行の心得に反するというものもあるでしょう。

 

ま、この話はいったん軽めにとどめておくとして、要は経験がないのです。

 

 

法話が難しい理由②

法話を行う際に、どうしても「一人が」「みんなに」という感じになります。

 

これは一対多の構造ですね。これは非常に難しいことと思います。

 

易筋行であれば、まずは基本で突き方・蹴り方など「技」を学び、その上で内受突などの「術」を二人一組で学びます。多数を相手にするのはもっと先です。(拳の三要:技・術・略)

 

なのに法話は突如振られて、突如みんなの前で話すことを求められます。これがまた難しい。

 

 

法話にも組演を

私が思うに、法話にも組演があってもいいのではないかと思うのです。

 

つまりは一対一での法話ですね。今目の前にいる一人に心を寄せ、その人の悩みを解決することや、やる気の出ない理由に寄り添い、少しずつやる気を引き出していく。そういう法話がもっと充実してもいいのではないかと思います。

 

一対一の法話を数をこなし、人を感化させることに良い使命感を感じてから、その先に衆敵としての「多人数に対する法話」があるのではないかと思います。

 

修行の心得にも「修行の順序」なるものがあります。法話が修行であるのであれば、これは法話にも当てはまる話であるはずです。

 

私も、衆敵であったはずの法話が単演(独り言)となってしまわないよう、相手を意識した法話を心掛けていきたいと思っています。

 

 

 

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