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最近、え?それ不起訴なの?みたいな案件が多いですね。裁判所の判決にどうにも納得がいかない。そういうケースがあります。

 

特に外国人の判決については私個人としても???な部分があります。なんか変な力が働いてんのか?治外法権まだ引きずってんのか?みたいな気持ちですね。

外国人の場合不起訴になった後、祖国に強制送還されて今後入国できなくなるという噂を聞いたことがあります。ほんとかどうか知りませんが、そうであればまだいいんですが。塀の中で税金で養うのも嫌なので。

 

 

 

裁判の結果を受け入れる「リテラシー」

 

裁判の判決について、それを受け入れる「裁判の当事者以外の人」がいるから司法制度は支持されるわけです。

 

自分が何か犯罪に巻き込まれて不利益を被った場合、当然に不満やいら立ちが生じます。人間だもの。

本音でいうと犯人を自分の手で裁きたい。復讐したい。この手で罰を下したい。そういう風に思うこと自体は仕方のないことだと思います。

 

ですが、それをせずに司法に委ねることで、法治国家が成り立っています。もちろん「そんなことしたら今度は自分が裁かれる」というデメリットもありますが、『司法が自分を裁くこと』も含めて、まるっと司法に対する信頼があるから、法治国家は機能しているのだと思っています。そこには理性的な判断が必要であり「リテラシー」といえるのかと思います。

 

では、この信頼が揺らいでしまったら。。。

 

 

司法に任せても、とても満足のいく罰は与えられず無罪放免となり、のうのうと塀の外で生きていくに違いない。それなら俺が罰を下してやる!と思う人が出てきても何ら不思議ではありません。

 

そしてその「手を下す」ということは法的には容認されていない犯罪行為です。「やり返しただけ」の行為にもまた被害者や被害者の家族・仲間が存在します。

 

そうなると法による抑止力も失われ「あいつが先にやったから」という歯止めの利かない負の連鎖が世の中に満ちていくと思います。この時に法治国家のもっとも大切なリテラシーが失われるのかと思います。

 

 

 

一度失われたリテラシーは戻らない

このリテラシーの持つ重要度は、国家にとって非常に大きなものだと考えています。

 

まさに戦後の混乱期から先人たちが積み上げてきた努力の結晶とも思えるほどに、「ルール(司法)に従って、理性的な判断から逸脱しないようにすべし」と”みんなが”思うこと、これこそが平和で豊かな社会の第一歩であると思うわけです。

 

このリテラシーが今危機に陥っています。

 

本当に良かれと思ってか、それとも再生数確保のためなのか「私人逮捕」を謳って活動する人たちもいます。

 

私人逮捕でなく、本来は司法の範囲でやるべきかと思いますが、その司法に委ねても納得のいく裁きがなされないなら、徐々に私人逮捕を応援する声が大きくなるでしょう。ネットリンチがどんどんと歯止めが利かなくなり、犯罪や裁きに本来関係のない一般の人たちも息苦しい日常を過ごすことになるでしょう。「法的に問題のないこと」でも「まわりがどう動くかわからない」という不安感があるので仕方のないことです。

 

抑圧された不安感が鬱積して、そのストレスが司法上の本当の犯罪行為を引き起こすかもしれません。

 

風が吹けば桶屋が設ける的な話に聞こえるかもしれませんが、風が吹けば~のように因果関係が徐々に弱まるものと異なり、このような循環は「歯止めは利かず、徐々に強まっていく類のもの」と私は思っています。

 

日本人の、良くも悪くも「みんなが耐えているから」で不満を噴出させない国民性のおかげで何とか保っていますが、そろそろ限界が近づいているような気もしています。

 

一度崩れたら、取り戻すのには非常に大きな労力を伴います。取り戻せないのかもしれない。

 

子孫の代に少しでもいいリテラシーを残すためにも、司法の在り方は善良な市民に対してきちんと納得的なものになって欲しいなと、切に願います。

 

 

 

 

 

 

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