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本日は(も)個人的な見解になりますが、金剛禅と原始仏教との違いについてつらつらと書いていきたいと思います。

 

 

 

原始仏教と金剛禅

 

そもそも原始仏教とは、昔々お釈迦様がインドで説かれていた内容(やその周辺)を指すものと考えています。あまりそっちの専門でもないので語尾をふわっとしていますが、日本とかに伝わる前のもっと原型に近い部分を指して原始仏教と呼称していると考えています。

 

金剛禅は「釈尊(お釈迦様)の正しい教えを現代に生かす教え」であると言われますので、原始仏教とは切り離し切れない部分がありそれでいて全く同じものではないという理解です。

 

 

あまり長々と書くと大変なので端的に書きますと、いわゆる原始仏教は、人間の営みである社会活動というものにあまり重きを置いていないように理解しています。悟りを開くには出家をし、修行に専念することが求められる。

 

社会(俗世)を、悟りを開いていない人間による執着の権化とでも言えばいいのでしょうか。それらとの関係を清算し、執着から離れることを大切にしているように受け止めています。

 

一方で金剛禅は、その開創の動機と目的からして「人づくりによる国づくり」にあり、社会に役立つ人間を一人でも多く育てることによって、国をよくしていこうというものですから、そもそもに「社会」が前提です。

 

 

なので、道院長には「定職をもつこと」が求められ、社会の中で揉まれながら少林寺拳法の修行に励むのですね。

 

もちろん、原始仏教やその他の出家を大切にしている仏教・宗教の在り方を否定するものではありません。単に目的が異なるのです。

 

 

在家であること

在家・出家とは、宗教修行の話以外にはどのような意味・意義があるのでしょうか。

 

辞書的意味を調べたわけではありませんが、私がこれらの言葉を知ったのは歴史上の人物が、政権を追われ隠居する際に「出家」という言葉がでてきたことが最初でした。

 

出家には、政治をはじめとした社会活動から離れ隠居するという意味(イメージ?)があるのかもしれません。

 

社会活動からの隔離をもって出家というなら、少々乱暴かもしれませんが「定年」という概念も出家に近いのかもしれません。年齢で強制的に社会活動から切り離されますので。

 

55歳定年が60歳、65歳にどんどんと引き延ばされていきます。また、定年延長議論の際には「再雇用」「定年延長」「定年の廃止」などがありました。定年の廃止はやや極端なようにも感じられますが「働くかどうかを単純に年齢だけで切り分ける必要があるのか」と言われてしまうとそんな気もします。

 

「悠々自適な老後生活」が、寿命の延伸に合わせて「後ろ倒しになっている」とも考えられますし、定年の延長によって「短くなっている」とも考えられますし、定年の廃止によって「無くなる」のかもしれません。

 

「無くなる」のであれば人生常に在家なわけです。自由なだけの時間は作れない。「時間がたっぷりあるから修行します!」ってそれはそれでおかしな話です。在家で、社会との関わりを持ちながら、限られた時間をうまくやりくりしながら修行する、そういう在り方に私は共感を覚えています。

 

皆様も、お忙しいとは思いますが、一緒に少林寺拳法を頑張ってみませんか?

 

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