松戸上本郷道院のブログへようこそ!


本日はちょっと小話と言いますか、私の思う少林寺拳法の道院の在り方をつらつらと。


あくまで私の思うところなので公式見解ではありませんし、ほかの道院や支部の在り方をとやかく言うものではありません。



「自分の練習」の確保

道院は「修行の場」です。居心地の良さはあれどやはり道院。修行が出来ねばなりませんよね。


サボるのはダメです。自分の練習をせねばならない。


しかし!


自分一人が有段者で他は級拳士とか、少年部ばかりとか、体験が多い日だったとか、そういう時に「自分の練習時間」を確保するのは困難です。


全てを自分の修練時間にすることはできないですし、むしろ許されません。


なぜか?少林寺拳法がだからです。


「弱い者を支えた強い者同士が互いに向き合ってお辞儀をしてる姿」開祖は『行』という字をこのように表現しました。


相対的に弱いもの、修行の進捗が捗らないものがいたら支えねばならないのです。




​税金のような時間?

弱者を教える時間は、仕方のない時間なのでしょうか。


たしかに一面的には仕方がないです。修行者として道院内で支払うべきコスト、すなわち税金のような捉え方もあるでしょう。


重税になればなるほど、自分の練習時間が総練習時間に対して少なくなればなるほど不満に思うのも理解します。


こんなことのために道院に来ているわけではない!


その悲痛な叫びを私自身何度も仲間から聞いてきました。


私はこの叫びに応える、道院の一つの責務として「やる気のない人には去ってもらう」があると思ってます。


やる気のある人のために自分の時間を犠牲にするのと、そもそもやる気もない人のために無駄にするのは、圧倒的に大きな差があります。


「やる気を出させるのも道院(長)の役目」というのもよく耳にしますし、それも大切だと思いますが、やはり限度と優先順位があります。


やる気ある拳士の悲痛な叫びには応えたい。




教えたがるのも危険

「教えるのも修行のうち」と言って、しんどいのを我慢して教える人もいます。その人たちは一刻も早く上達させないと自分の練習が出来ないので「どうすれば伸びるのか」を考えて教えると思います。私も学生時代そうでした。コスパが大事です。


一方で「いやー、これも修行だから」と口では仕方なしとしつつ、常に教えるばかりで自分の練習をしない人も存在します。教えることが楽しいのかと思います。


教える内容が「自分の話したいこと」となると危険です。成長させるというよりは自分の話を聞いてもらう。それが蔓延した時、道院は死にます。




教えることで学ぶ、とは

有段者は指導に回る必要があります。


そしてその指導は悩むために行うものかと思います。上手く説明できて相手が上達するのならそれは素晴らしい。


上手く説明ができない、説明したはずなのに相手が上達しない。そんな時には自分が見落としてるポイントや力技になってる部分などがきっとある。心情面として相手に寄り添えてないこともある。


この辺を教える立場でありながら苦悩することで、技の理解や説明方法、人としての優しさや配慮の獲得が進むのかと思います。そうすると、この時間で自分が成長できないなんてことはあり得ない。


自分の練習ができない状態で、自分も上達する


それは外形的な「自分の修練時間の確保」ではなく「自分の24時間の過ごし方」の話と言えると思います。



「開祖が技の練習をしてるのを見たことがない」と聞いたことがあります。それでも開祖の技に到達できた人を私は知りません。



私自身、伝えたいこともたくさんあり、ややもすれば門下生の顔を見ずに指導してしまってる時もあります。私も何か学べるような、修行者としての意識を常に持ち続けられるよう自戒したいと思う次第です。






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