松戸上本郷道院のブログへようこそ!
本日はわたしが好きな少林寺拳法について、私の気持ちの変遷も踏まえてざっくばらんにお話したいと思います。
色々うるさい少林寺拳法
私は高校時代に強くなりたくて少林寺拳法を始めました。
本当は空手がしたかったんですが、空手部が無くて少林寺拳法部があったので少林寺拳法にしました。
「空手がしたかった」と言うのも嘘で「殴る蹴るに強くなる」→「空手」の先入観があって、白い道着を着て殴る蹴るをする武道のことを全て空手と呼ぶのだ、というぐらいのイメージでした。
少林寺拳法部に入ると、開祖の顔写真があり「教え」と言うものがありました。当初私にはこれはとてもとても不純物でした。強くなりたいだけでしたから。
バスケ部に入ったらバスケの練習をします。バスケの創始者なんて知らないし「ドリブルを人生に活かす」なんてこと言いません。私は単に「点を取る方法」を知りたかったわけです。
「教え」というものを押し付けられるのもまた、当時猜疑心でいっぱいだった私には苦痛でした。「それは求めてないよ」と言うものを放り込んでくる、そんなうるさい印象です。
しかし強くなる過程でこれらを押さえねばならないので我慢しました。ただ、部活の属する財団法人とは違いますが、グループの団体に宗教法人もあると聞いて「これは足を洗うタイミングはしっかり見極めるべし」と強く思ったのを今でも覚えています。
ですので教えについては鵜呑みにせず、自分にとっての良し悪し、上から目線で言えば真贋を見極めながら学ぶことを心に決めました。
教えの中身
教えの中身は意外と普通でした。
自分を大切にしろ、とか少しは人のことも考えろ、とかですね。なので当初思っていたような拒絶反応を示すものはなかったです(なので続けてます)
「ダーマ」という言葉を聞いた時は「ついに来たな!!」とも思いましたが、紐解いていく上で大したことを言っていない(こんなことを言うと怒られますが)とわかり落ち着きました。
私がむしろ意識して注視してたのは「耳あたりの良い言葉」です。
耳あたりの良い言葉
少林寺拳法は慈悲心と勇気と正義感をもって行動できる青少年を育てるために出来ました。
ここら辺のワードがブレ始めたら危険信号です。
スーパーウルトラファイナルギャラクティカスペシャルアルティメットメテオアターック!!
的な小学生のごっこ遊びの技名のように、なんかかっこいい言葉を何でもかんでも並べ続けるが如く、耳あたりの良い美辞麗句を挙げ続けるのは、逆に中身のない証拠になると考えたからです。
複数の資料を見比べ、言ってることに齟齬がないか調べました。結果、どの書物でも表現は異なれど大体同じ方向性の話をしてたので安心しました。
その中で以下のことに気づいたのです。
決して出てこない美辞麗句がある、と。
正々堂々な少林寺拳法
少林寺拳法では「正々堂々」と言う、およそ武士道や騎士道にありがちな(イメージの)言葉は一切出てきませんでした。
そうです!少林寺拳法は「正々堂々」であることは求めてないのです!
これに気づいた時に「すげー!」と思いました。卑怯で良いんだ!正々堂々と対峙してきた相手に目打ち金的をしちゃって良いんだ!なんなら罠に嵌めても良いんだ(知術・智略)!!
技術体系も確かにそうなってる!相手の嫌なところに自分の全力を尽くしても良いんだ!
そんなことを思うと、教えと技法の協調が取れ、当初不純物だった教えも技術体系を理解するための重要な一部となった、そんなお話です。
卑怯であること
では本当に卑怯でも良いのか。
もちろん卑怯を推奨してるわけでもありません。
「自ら悪を為さば自ら汚れ、自ら悪を為さざれば自らが浄し」という教えもあり、正々堂々という手段の話とは別に「善悪」は重要なことと捉えています。善因善果悪因悪果ですね。
また『徳』というのもキーワードです。
護らねばならぬもの(自分でも他人でも物でも)を護る際の、力の行使の方法に関しては正々堂々である必要は無いと思いますが、その力の行使の「目的」が卑怯なものであれば徳を失うこととなると思います。徳を高めることを大切にしつつ、綺麗事も過度には言わない。そのスタンスは好きです。
繰り返しになりますが、野放図で好き勝手やってよしでは無い点には注意が必要で、でも「いざという時には手段は選ぶなよ」という意志を私は感じ、共鳴したというわけです。
もちろん皆さんには皆さんの受け取り方や共鳴があると思うので押し付ける物ではありませんが、何か共鳴できる部分があるといいですね🙏
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