松戸上本郷道院のブログへようこそ。


今回は開祖忌法要に先立って、開祖忌法要の位置付けとその意味について、私個人が思うところを書くものです。


正式な「教え」とはきっと異なるところもあり、道院内門下生へ道院長としてのスタンスをお伝えするものとご理解ください。


誰のための金剛禅か

私たちは少林寺拳法を日々学んでいます。


少林寺拳法を通じて、社会に役立つ、自他共によく生きられる人間を作るのが「金剛禅」という教えです。


金剛禅は少林寺拳法という武道を通して人を育てる教団だ、と言いかえても良いです。(この教団ってものものしくてあまり好きではありませんが)


自分を整えて、自分も相手も立てられる、言ってしまえばそれが全てです。


時代背景の中で、腕力が強くなければ自立できない環境であれば(開創期はまさにそうでした)腕力・武力を求めますし、学歴社会とか言われるのであればそこで求められる「学力」が必要になるでしょう。入試や社会で武力を振りかざしてたらヤバい奴です。社会の成熟度に合わせて変わっていかないのであれば、それは時代遅れになってしまいます。

もちろん「いざという時の護身」は重要です。いざという時のための武力を向上させるために「強ければ良い」というような全リソースを割くような事はしない、「何のためにやるのか」という主目的の話です。


今、この社会で求められる人間を一人でも多く育てる。そのため「生きてる人のためのもの」ということが当然の前提となるわけです。




死者にいつまでも寄りかからない

先祖の祟りが〜という検証不可能な脅しをする悪徳な人もいます。金剛禅はこういうものとは違うと開祖ははっきりと言っていました(ハッキリ言いすぎて角が立つほどに笑)


生きてる人がより良く生きるための金剛禅であって、死者崇拝や死者の怨霊などと言うものは、歯牙にも掛けないのです。


崇拝にせよ怨霊にせよ、過度に死者に寄りかかった考え方だと私は考えます。


満員電車に乗ってて思うんですが、今生きてる人だけでこんなにぎゅうぎゅうなんです。「死者」が何代先まで指してるかわかりませんが、もう地球上ほとんど死者でぎゅうぎゅうなんじゃないでしょうか笑

ま、質量や体積はないよ、と言う話ですが、質量も堆積もなければ怨霊も怨念もない、私はそう思います。


死者崇拝しないと言うなら、なぜ開祖忌法要なんてやるの?めっちゃ崇拝してるやんけ!そう思うのが自然です。



なぜ開祖忌法要?

開祖忌法要は、開祖のあの世での幸せ(冥福)を願うものではありません。


また、開祖を崇拝して「ははーっ!」と頭を下げる類のものでもありません。


今、少林寺拳法というものを、忙しい我々が時間を割いて学んでいるのは何故でしょう?各人色んな見方があると思いますが、結局のところ、それだけの価値がある・素晴らしいものと思っているからこそ続けているのではないでしょうか。(価値がないと思った方は辞めていきます)


そんな少林寺拳法を作った人への感謝の気持ちをする「感謝行」の一つとして、また、それらを共に学ぶ仲間と「これからも前向きに修行していこう!」と確認し合う場として、開祖忌法要はあると考えています。




どれだけ懐かしもうが開祖はもう死んだ人なんです。開祖に過度に甘えたり期待したり寄りかかってはいけません。志を継いで、今を生きるのが報いた生き方と私は考えます。


開祖忌法要が開祖を崇め奉るだけの死者崇拝に成り下がったら、そんなものはさっさと辞めて、本山にある開祖の霊廟も叩き壊してしまえばいい、それぐらいに思います。




開祖の言葉を貼っておきます。




少林寺拳法を通じて、自惚でない自信と円満な人格を作り、自分の周りに人が集まる、そういう徳のある人間になれたら良いですね。


本日5月12日は開祖の命日です。


気持ちも新たに頑張っていきましょう!



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