本日は、拳の三訓についてお話しました。


拳の三訓とは

拳の三訓とは「守」「破」「離」という、物事を学ぶ三段階のことで、少林寺拳法に限らずおよそ技芸教授に関するものについて用いられる概念です。


守:師の言うことをまずは素直に受け取り、真似て『師の格』に至る段階


破:守に至ったのち、自分の解釈を加え『師の格』を変形させる段階


離:師の格を離れ、『自己の格』に至る段階



守破離の失敗例

人間、どうしても自分の「出来る/出来ない」が気になり、成長を急いでしまうところがあります。


私が先達から聞いた話で面白い話がありました。


「いいか、守破離には続きがあるんだ。自分が「離」に到達してると自惚れて、実際には理合からも離れてしまい何やってるかよくわからんことになる場合がある。俺はこれを『滅』と呼んでいる笑」


一本筋の通ったものであれば、枝分かれしてもそれは意義があるものですが、そうでないとその枝は枯れてしまいます。


ここでいう筋(スジ)とは技法で言えば「」なのかと思います。



さまざまなレベルでの守破離

門下生から「どの段階までが守でどこからが破なのか?」と質問をもらいました。


これはなかなかに難しく、また面白い話です。


先生に技の掛け方を習ったものの、それとは違う掛け方に独自でアレンジをしだしたら、それは「破」なのかと思いますし、そこに異論は無いと思います。


では、言われた通りにやってるけども、例えば特に指導されてない足の踏み出し位置などについて、自分なりの工夫とかコツがある場合は?


全体としては「守」であるものの「破」の要素がそこにはあるのではないかと思います。


これは技としての細かいレベルでの守破離ですが、他にももっと大きなレベルでの守破離などもあるのではないかと考えています。要は守破離は明確に言えるものでなく、「守の中の破」みたいないろんなレベル感で言えるのかと愚考しています。


個人的には、破や離は求めて進むものというよりは、守であろうと言う気持ちの中で修行を進め、それでも独自性は自然と出てきますので、守の中で納めようという努力と裏腹に溢れてしまったものが初めて「破」なのではないかなと思ってます。



伝言ゲームにならないように

破や離という、変化を許容する概念は、ともすれば伝達事項の伝言ゲームを引き起こします。何代も続くことで当初の形から本質が変わってしまうことを、伝言ゲームと言っています。


技で言えば上述の「理があること」が伝言ゲームにならないことの一つの基準かと思いますが、少林寺拳法は教えもあります。


教えについての“スジ”は「言ってることの理論的正しさ」などではなく、あくまで「人づくりによる国づくり」という「開祖の志」を引き継いでいるかと言う点に尽きると思います。



我々は金剛禅の修行のために少林寺拳法を行なっています。滅に至らないようくれぐれも注意しながら修行を進めていきたいものですね。



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