本日の法話は「生涯修行としての少林寺拳法」についてお話しました。
人間の一生
「死なない人」はいません。人は皆、生を受けたら須く死に向かって進んでいきます。
生まれたときには無力で、死ぬときにもまた無力です。その無力と無力の合間に人の一生はあり、そこを充実させるのが人生です。
人生のピークと求める強さの種類
強くなりたい!と思うのも大切ですし、それが叶うよう、道院で全力でサポートしますし練習も提供します。
が、強さは老いとともにどこかでか頭打ちとなり、最終的に「弱くなっていく日々」が到来します。こればかりは仕方ない。
他者比較としての「最強」は、男として生まれたからにはとても魅力的ですし、そうなれる人は尊敬に値しますし、そこを目指す努力もまた尊いものです。ただ「いつかは失われるもの」という性質を思うと30代あたりでピークを迎えるものであり、生涯追求できる類のものとは異なりそうです。
我々は少林寺拳法を生涯続けていくため、ピークが過ぎた後も、自分が主役である修行方法を模索しないといけません。もちろん、自分が主役であると万人が思うわけですから、みんなが主役です。
人生の段階と、拳法修行のあり方
汚い図ですが、、、
生まれた瞬間から、死ぬまでの時間軸を横軸に、縦軸は強さとか能力とか、まぁそんな感じの「伸ばしたいもの」を考えていただければ良いかと思います。
不慮の事故でもない限り、生まれた時も死ぬ時も、縦軸は0で、0から始まり0で終わる。その間に縦軸が伸びて、いつかピークを迎えて衰えていく、そんな図です。
①育てる拳法
主に幼少期、体ができるまでの期間は、過度な筋トレや高負荷な運動は体を壊してしまい成長を阻害してしまいます。
スキャモンの発育曲線というものも大いに参考にして、手足を意識的に動かす、この技はこう言う動きをする(ルールに応じた動きの学習)などが好ましいかと思います。
また、他者への思いやりや、集団行動などもこの時期に大いに学んでほしいものですね。
こう言うものを「育てる拳法」と呼んでいます。
②鍛える拳法
いわゆる拳法です。強くなっていただきたい。乱捕や高い運動能力ならではの演武をバシバシやっていただいて、自分の求める理想像を追求してほしいですね。なんだかんだで、ここでやってたものが拳法人生のバックグラウンドになるのではないかと思います。
③養う拳法
板書では名前が出て来ずブランクになってます(^_^;)
体力が衰えてきた時に「ではもう少林寺拳法は引退だ」となるのでしょうか?いえいえ、少林寺拳法に『引退』と言うものはございません。
自分の体力に応じて「本来何もしてなければ自分はここまで衰える」という事実に対して「拳法を通して体力の維持を試みる」「力がなくなる分、技を練ってなんとかする」など、そう言うことを試みます。
老獪と言えば良いのでしょうか、そう言うものを学んでいきます。
私は今この段階ですかね。
④拳法を超えた拳法
どれだけ拳法で体を養ってもいずれ体が思うように動かなくなる日が来ます。
そのときに問われるのがその人の「生き様」なのではないかと思います。
能力値を縦軸に、と言いましたが、そうするとグラフと横軸で囲まれた部分の面積は「社会貢献度」や「徳」と言えるのかもしれません。
この徳を養い生きてきた人の周りには人が集まるでしょうし、その人の語る言葉には後進を動機づける強さがある。
それを「拳法を超えた拳法」と呼ぶのではないかと考えています。
日々の修行にあたって
同じ道院の中でも、その人のライフステージにより、修行方法はまちまちです。
まさに多様な価値観の中で社会生活を送るように、多様な価値観の中で修行することが求められます。
比べるべきは他人でなく「何もしてなかった時の自分」です。
これは、30代以降はわかりやすいですね。修行しないと伸びない、あるいは衰える。そこを伸ばす、あるいは維持するために頑張る。
私が毎回言ってるのは、一番難しいのは幼少期です。幼少期は何もしてなくても体は大きくなり強くなる。その成長に隠れて「修行による成長」が見えにくい。
「何もしてなかった自分」がどれだけなのか見積もりにくいのです。なので、より具体的に目標を定め、それができるようになったと言う実感が必要になるのではと思います(現状そこまでケアできてませんが)
長々と書きましたが、そういうことを門下生には伝えてきたつもりです。

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