一人稽古 其の壱「坐禅」(何かを得るためではなく、○○を捨てるためにやる) | 身体からの悟りを目指して ~ 少林寺拳法

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我孫子道院 道院長のブログ

コロナ禍の影響で、修練にもいろいろと制約かかってきている当今、

「常在道場」の精神で、一人稽古も大事になってくる。

 

そこで、まず坐禅から。

 

 

坐禅は、「調身・調息・調心」の流れで。

 

座り方は、半跏趺坐。

お尻をペタッと床につけるのではなく、“坐骨で立つ”ようにして座る。

背筋は伸ばし、肩の力は抜いて、結手した手を臍下三寸=臍下丹田に軽く当てる。

目は軽く閉じて、胸を張って、顎が前に出ないように。

 

・調息

金剛禅総本山少林寺に伝わる呼吸法は、

①吸気(鼻から深く大きく息を吸入 「宇宙の精気我体内に入る」と思念する) 約七秒

(※ 吸い込んだ息で、体幹全体が前後・左右・上下に均等に広がるようにするのが要諦)

②漏気(鼻より少しフムと漏らす) 

③充気(息を止め、気を満たす) 約三秒

④呼気(「ダーマの徳性、我に発する」と思念しながら、七分の息を吐き出す) 約十秒

⑤残気(三部残して吸気にもどる) 約三秒

の五つの息法を繰り返し、意識的に気を充実させるように行う。

 

この調息法の目的は、

ずばり「陰気な気分を吹き飛ばし、宇宙の大精気を取り込んで、身心の活力として用いる」こと。

 

調身=身体を調え、調息=呼吸を調えれば、やがて自然に心が調う(調心)というのだが……

 

しかし、坐禅を組んでいると、なぜだか余計なことばかり頭に浮かんできてしまう!!

(意馬心猿/マインドワンダリング)

「精神統一」には程遠い。

さてどうしたものか。

 

いや。心が迷い出すのは自然なことなので、心が迷っていることに気付いたら、坐禅に意識を戻すだけ。

気付いたら、思いを手放す。これを禅語で「覚触」(かくそく)という。

 

坐禅を組んでいる間は、何度も「覚触」すればいい。

そう考えれば、坐禅は難しくないはず!?

 

 

最近、注目されているストレス低減メソッド、「マインドフルネス」は、仏教が起源の言葉で、直訳すると「気づき」という意味。

もともと坐禅などのエッセンスを抽出したものなので、坐禅の「調身・調息・調心」は、そのままマインドフルネス訓練になる。

 

一番肝心なのは、

坐禅もマインドフルネスも、なにか効果を期待してはいけないということ。

坐禅を組んだら、心が落ち着く。心が広くなる。胆力がつく。太っ腹になる……。

これらを期待して、坐禅を組んではいけない!

 

もちろん、結果としてはかなりの効果があるわけだが、効果を求めてやると、効果が逃げていく。

「無所得、無所悟」

やっていれば勝手に変わる。

そんな気持ちで、気長に毎日やれるようにしたい。

「一日一禅」

 

 

「正」という字は、「一」+「止」と書く。

つまり、「一度止まる」=「正しい」ということ。

 

一週間に数回でも、坐禅を組むことで、日々の暮らしにワンストップ。

自分を見つめ直し、ストレスや不安、楽しかったこと、うれしかったことも、全部一旦リセットする。

過去(反すう)や未来(心配)へさまよう心を捨てる。

 

空腹は最大のご馳走といわれる通り、

心も一度空っぽにできると、見たもの、聞いたもの、体験したものがなんでも新鮮に感じられ、

豊かな気持ちになれるはず。

 

坐禅は何かを得るためではなく、心の中のものを捨てるためにするのです。

 

本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『107』