ときどき少年部の拳士に次のような質問をしてみる
「少林寺拳法のワザをケンカで使っていいか? わるいか?」
なかなか難しい質問らしく、子供達はけっこう考え込む
「いけないような気がする」「でもそれじゃ、技を習った意味がないのでは?」
「やられたらやり返すかも」 etc.
いろいろな意見が出たあとで、ワタシはこう総括している
「いざというときは、少林寺拳法のワザをケンカで使ってもかまわない。
でも二つ条件がある。
ひとつは、自分から先に手を出さないこと。
そして、もうひとつは自分に非がなく、相手が悪い場合で、口で言っても聞かないときだけ」と。
開祖曰く
「力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり」
困っている人を見かけて、助けてあげたいと思っても、
手を貸す体力、仲間を集める影響力、アイデアを出す知力、想像力、寄付をする財力、そして何より行動力や実行力といった「力」がなければ、人を助けることができません。
また、力があっても、愛や慈悲心がなければ、力があるぶんだけ人々にとって迷惑な存在になってしまう。
というわけで、少林寺拳法ではこうした考え方を「力愛不二」といって、拳士の行動のあり方の指針とし、
これを「拳禅一如」に次ぐ第二の特徴としている。
この「力愛不二」に関連して、開祖は少年拳士たちに、
よく「君たちは現代の桃太郎になれ」と語られました。
『犬、猿、キジに信頼され、彼らを徳でもって統率する指導力、鬼ヶ島に乗りこむ正義感と勇気、降参すれば鬼どもをさとしてこれを許す慈悲心をあわせ持つ、賢くて、やさしくて、強い若者、そういう若者を多勢この日本に育てたいと念じながら、私はこの道に半生をかけてきたのである。
少林寺拳法は、英知と勇気と健康を備え、現代をたくましく生き抜く自信を身につけ、同時に他人の幸せをも考えて行動できる慈悲心を養うことを目的として行じてこそ、価値があるといえるのである』(開祖法話より)
「改心すれば許す慈悲心」これも難しい課題です……
明日は開祖の30回目の命日です。 合掌
本日の「身体の知能指数」 (PQ=physical quotient) 『100?』