ボランティア は 善行 ではない。

NPOをやっていた時、ある人からよくこの話が出ました。
その人は、だいぶ昔、障害者の人の旅行ツアーの介添えボランティアを
していたそうです。
心の中は、「楽しんでもらいたい」「不便を助けたい」「喜んでもらいたい」
でいっぱいだったそうです。
ほとんどの参加者がボランティアにくどいほど 感謝を延べている中
自分が担当した人はほとんど言わない。
なにが不満なんだろうとだんだん焦りが苛つきに変わった時
ふとその人が漏らしたひと言で
頭を殴られたような衝撃をうけたそうです。

満足したいのは自分だった。
してあげたいことと必要な補助がどれだけ噛み合っているのか
一度も尋ねなかった。
してあげたい、という発想のなんと尊大なことか。
相手の能力を最初から出来ないと値引いている自分のおこがましさに
倒れんばかりだったそうです。
そのことに気がつかせてもらった自分はボランティアという体験をさせてもらっているのだ。
歩けない人がいるから、歩けないということがどういうことか
学ぶチャンスをもらっている。

「リハビリの夜」という著書のある車椅子の小児科医で東大先端科学技術研究センターの
熊谷晋一郎さんという方も、感謝という報酬をめぐって面白いことを言っています。

不登校の子のいばしょから始まったフリースペースたまりば代表の西野博之さんに
お話を伺ったときも、スタッフに気をつけていることとして
「その問題だれ問題」があるとおっしゃいていました。
問題を抱えている子に関わるうちに、自分が解決してあげなければ!とのめり込む。
自分の達成感が優先されてないか。本人が解決出来る力を奪ってないか。
それをスタッフ同士で指摘できることがとても大事なのだそうです。
「居場所のちからー生きてるだけですごいんだ」

さて、前出の、ふと漏らしたひと言はなんだったのでしょうね。