​オタ卒に悩める人へ

 最近よく聞くオタ卒という言葉がある。報われる報われないといったオタ活の本質からかけ離れたオタクをよく目にする。今回は多角的な視点からオタ活について分析し、オタ卒について考えてみよう。


目的意識の損失 

 本来、オタ活とは何らかの目的や期待を満たす活動であると考える。

例えば、

・推しの成長を見届けたい

・ライブで輝く姿を見たい

・推しを通じて新しい経験や、コミニティを通じた人間関係の構築


しかしこうした目的が曖昧になり、惰性的にイベントに参加したり、チェキを撮るだけといった目的を伴わない習慣へと変質している人もいるのではないか。

報われるためにオタ活をしている。これも一つの目的や意識であるだろう。しかし、本人の話を聞くにそこまでのプロセスに中身がなかったり、そもそも自分のためにオタ活をしていると私は感じてしまう。

これはいわゆる自慰行為と何ら変わらないのである。


​機会費用と人生の有限性 

 簡単に言えばお金と時間には限りがあるよねっていう意味だが、多分これを理由で辞めようと"考える"人はそうそういないだろう。むしろこれで悩んでる人がいればすぐに辞めろと私は手を差し伸べるだろう。てことでここではそこまで触れないものとする。


​執着と愛着の混同 

 オタ活を辞められない理由は必ずしも推しへの愛情だけではない。

例えば

・これまで費やしたお金がもったいない

・長年応援してきて辞めづらい

・周囲のオタクとの関係を失いたくない


これらには過去の自分の投資を惜しんで合理的な判断ができなくなっていると考えられる。

オタ卒を考える上で、その時点で明らかに推しへの愛着は薄れていて、上記が脳裏にちらついているのであればそれは愛着ではなくただの執着であると私は考える。

好きだから続けるのか、辞める理由が見つからないから続けているのか、今一度自分に問いかけてみるのもいいのではないだろうか。


娯楽的な幸福と人生的な幸福​ 

 私はレスを瞬間的快楽と考えている。もちろんレスにはたくさんの種類があり、アイドル側もこのレスにたくさんの気持ちを込めているだろう。レスの過程には期待と快楽が存在する。努力や長期的な成果を必要とせず瞬間的な出来事によって強い喜びを得られる可能性がレスにはある。レスには即座性の効果がある反面、長い時間をかけて応援してきた事実というよりも、この瞬間的な反応によってその日の満足度を左右してしまう点について非常に危険だと私は考える。レスは娯楽的な幸福であり、推しの努力に刺激を受けて自分も努力するなどといった人生的な幸福を追求する方も忘れてはいけないのではないだろうか。この娯楽的な幸福、人生的な幸福両方を追求することによって幸福の供給源が一つに偏らずバランスよくオタ活ができるようになる。長くなったが、ここではこういった考え方もあるよという幸福追求についての言及である。


​レスの危険性 

 応援する対象に価値を置いているのか、応援することによって得られる報酬に価値を置いてるのかどちらに重きをおいてるのか考えよう。得られる報酬として分かりやすい例で「レス」というものがある。レスの本質については前記のとおりであるが、レスの依存による危険性について触れてみようと思う。

 レスには承認欲求をみたしているが、自己肯定感の根拠にはなっていないと考える。レスの要求はいわゆる自己価値の外的依存であり、これらは価値を保証するものになっておらず、ただの承認欲求にすぎないのである。オタクが弱いとされている部分として、レスを求めるがあまり、自分自身の幸福の主導権を他者に委ねてる状態こそ危険であり、「弱い」とされている部分ではないかと私は考えている。

​惰性的な消費からの脱却 

 オタ卒は意図的に決断するものではなく価値観や人生の優先順位の変化によって自然的に訪れるものである。辞めるかどうかを思案している時点で愛着と執着が混同している状態であり、そこに大金を落とす意味はないのではないだろうか。時間、金銭の余裕、オタ活の分岐する要素はたくさんあると思うがオタ卒したいがために新しい趣味を見つけようとするのも間違っている。自己の人生に目的を見出し、外的依存を断ち自律的な充足を確立しようとしているのであれば対象が変わるだけで本質的な問題は解決していない。オタ活において明確な目的がない限りオタ活を続ける必然性はなく惰性的な消費に甘んじる必要はないと考える。

ここで長々と文章を綴ったわけだがこれらを短くまとめることができる。つまり、

「ゆきまるはオタクを辞めた方がいい」

これに尽きるのである。