今政権の横暴ぶりは目に余るものがある。露骨に権力を振りかざし、批判的な意見は全て封殺しようとする。到底、現代国家とは思えないほどの夜警ぶりである。
そして、無碍に革新的な言論にレッテル貼りをし、民族差別主義的で聴くに耐えぬ罵詈雑言を並べ立て声高に叫びまくる輩がいる。笑止千万である。
かといって、革新派は革新派で盲目的になり、外敵を排除し、対話を止め同じ言葉を繰り返し永田町で叫んでいるに他ならない。学者も、娑婆の人間が分からぬような専門語を使い、論理を捏ねくり回すのみである。
斯く言ううちに、権力はここまで日本を生きづらい国家にしてしまったではないか。
言論は叩きのめされ、知性の欠片もない感情的な言説が蔓延り、声の大きいもの、従順で忠実なものが肩で風を切りその辺に跋扈するような時代になってしまったのだ。
あそこまでの悲劇を経験しても尚、日本という国家はなにも反省せぬ、事勿れ、阿呆馬鹿垂れ国家なのである。
アジテートする気も起きない程の体たらくに、只々自分はファクトを積み上げていく他ないのかと思うと、馬鹿総理がファクトもなく叫べば事なく決まる事に、その云万倍も労力の要るファクトで対抗せねばならぬと思うと暗澹たる思いであるが、マァそれも仕方のない事だ。
叫ぶだけでも、論理を積み上げるだけでも成せないということを、今はそんな生温い状況でもないことを、肝に銘じたい。
この70年間、日本がいつ、他国に攻められた?攻められるという確からしさはどこにある?
日本国家は非常にout of dateな状況にある。先般戦争といば、国対国ではなく、もっと潜在的、遍在的になっている筈だ。一般的にゲリラやテロと呼ばれるそれは、主に中東やアフリカでしきりに繰り返されている。ヨーロッパでも。
一因には欧米の過剰な政治介入や武力介入があるだろう。元をただせばイギリスの三枚舌外交があるか、あるいはそれよりもっと根深い。
兎にも角にも、日本は中東諸国に対し、「非軍事的な」協力をしてきたはずだ。それはきっと評価され、日本人が中東に行くと歓迎されてきた。
しかし、今回のアメリカ寄りの法律は確実に日本、あるいは日本人がテロの標的になるハードルが下がったと思って差し支えないだろう。
日本国家はありもしない「仮想敵」を作り出し、最も安直な「正義」を振りかざすアメリカ国家に「正義」を委ね、「国際貢献」という大義名分を楯に自ら火種に乗り込んで行くのだ。
政治家が国家の危機をしきりに語る時、その状況自体が危機であると思った方がよい。対外的な危機ではない。極めてドメスティックかつ、もっと潜在的な危機だ。戦争は過剰な自衛意識から起きるのだ。
そして、知らぬ間に言論は封殺され、気づけば皆が一つの方向に向かっていくという自発的隷従、もっとも気持ちの悪い状況になっている。
遠方にせよ、近場にせよ、今後、もっと状況は悪くなるだろう。
結局、へらへらして野放しにしてきた、我々国民は、いずれその見返りを受けるだろう。たかだか70年前と同じように。
政治家が法律を悪用しないと言っていた1925年、その5年後には法律の悪用が始まった。
政治家が経済政策やオリンピック政策をしていた1930年代、その数年後には戦争が始まった。
あまりにも鈍感すぎる。あまりにも阿呆すぎる。あまりにも過去を知らなさすぎる。あまりにも他力本願すぎる。
ちゃんと監視しろ、ちゃんと覚えておけ。ちゃんと過去を知れ。ちゃんと意思表示をしろ。

この警鐘が誠に成らぬように願う。
数字と生活について
生活は本来、生命を維持し、子孫を残すことがその根源的な命題であって、近代以降の経済はあくまでその命題をより効率的に行うための手段であったはずだ。しかしながら、明らかに現代においては、「数字を維持する為に生命が犠牲になる」という皮肉めいた、かつ決定的な逆転が起こっている。つまり、システム化された経済においては、限りない数字の膨張に人々が翻弄されてしまっているのだ。「株価」や「国家予算」という装置に左右され、何万もの人々が命を落としている。数字の維持拡大に、生活は飲み込まれ、「富めるもの生命の維持」がオートメーション的に再生産されている。

新・リヴァイアサン
以上の様なシステムを意図的、或いは意図以上の領域で作り上げているのが国家である。かつて、法律書と剣を持った怪獣として表現されたリヴァイアサンは、いまや掃除機、あるいは海坊主のように、飢える者の全てを吸い込み、富めるものに集約する装置と化している。本来、人々の利害の調整機関として近代に再出発したはずの国家は、その姿を巧みに変貌させ、「民主主義」という凝固した言葉を隠れ蓑にした恐ろしい利権装置となった。国家は完全に経済論理に飲み込まれてしまった。

職業政治家の世襲
「国民の代表者」であるという理想を掲げる政治家はもはや存在しない。或いは、もとから存在していなかったのかもしれないが。政治家は親から子へと受け継がれ、その親が持つ利権の塊はそのまま子へと引き継がれる。子が政治家になった瞬間に、全ての利権が用意され、数字のシステムはより強固なものとなる。莫大な金を持つ親の元に育った子は飢える者の苦しみを知らず、大きい論理に飲み込まれる小さい生活に対する想像力を最初から持ち合わせない。それ故に、何の罪悪感もなく利権を振りかざし、数字の論理に最も都合のいいような操り人形となる。その乏しい想像力は、親の力に起因する虚栄心や下らない美学と合間ってより邪悪なリヴァイアサンを構成していく。

歴史と反知性
もともと何の知性もなく、努力もしないで職業政治家となった子は、国民に対して自分の遡上で語ることを要求する。そして、自分の乏しい知性を超えるものは「敵」として徹底的に排除しようとする。その排除には、利権や金、権力など、あらゆる手段を駆使する。歴史を知る者、パレーシアステイト、あるいは、知性を持つものは徹底的に排除され、力を失っていく。残されたものは何も知性を持たないもの、或いは知性を捨て、媚びようとするもののみとなる。

コミットしない人々
知性を持たないものは、コミットしない。目先の数字や恐怖だけを気にし、先をみる想像力を持たない。井戸を掘る作業だけを好む。こうして、新リヴァイアサンに飲み込まれ、その餌となる。そして、気づいたら自分がかつて「与えられていた」権利や自由を剥奪され、生活を奪われ、生命を落としていく。気づいた時には既に遅い。そして、「あぁ、自分たちは間違っていた」と頭を抱える。そして「二度と同じ過ちは繰り返さない」と心に誓うのだ。たった数十年前に同じことが起きていたとも知らずに、また、新リヴァイアサンに飲み込まれて行くとも知らずに。

悲しい話では、ありませんか。