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8月6日、テアトル新宿にて、初日舞台挨拶付で鑑賞。


本作の原作は瀬戸内寂聴さん。

寂聴さんが映画公開にあたって書いた手紙がとてもいいので引用します。

 

挨拶

本日、映画『花芯』を観に当館へ御来場くださいましたお客様皆々様に、心からの感謝のご挨拶を申し上げます。私は小説「花芯」の作者、瀬戸内寂聴です。今から59年前、1957年(昭和32年)の雑誌「新潮」10月号にそれは掲載されました。
当時の私のペンネームは戸籍名の瀬戸内晴美でした。60枚余りの短編小説でした。前年、「女子大生・曲愛鈴(ちゅあいりん)」という小説で、「新潮社同人雑誌賞」を受賞して、はじめて注文されて書いた小説なので、私はひどく張り切って書きあげ、自信作のつもりでした。ところが、それが雑誌に載るや否や、新聞の書評欄で、平野謙という批評の大家に、こてんぱんにやっつけられました。たまたま他の雑誌に載った石原慎太郎さんの「完全な遊戯」という小説と並べて、エロで時流に媚びていると言うのでした。
私の「花芯」は、特に子宮という字が多すぎるとありました。中国語で子宮のことを花芯と言います。私の小説の中心に据えた言葉だったので、それが繰り返し出てきて当然です。
さあ、その後が大変です。匿名批評家がこぞって、「花芯」の悪口を書きました。「作者は男と寝ながら書いたのだろう」とか「作者は自分の性器の自慢をしている」とか、全く下品なもものばかりでした。私は新潮社に出かけ、編集長の斉藤十一という偉い人に、新潮に反ばく文を書かせてくれと頼みました。玄関に仁王立ちのまま中にも入れてもらえず一喝されました。
「小説化は自分の恥を書き散らして銭(ゼニ)を稼ぐ者だ。読者にどう悪口を言われようと反論などするべきでない。そんなお嬢さんのような物腰でどうする。小説化ののれんをかかげた以上、どんな悪評も受けるべきだ。顔を洗って出直して来い。」
とまで言われました。私は収まらず、ほかのところに「あんなことを言う批評家はみな、インポテンツで、女房は不感症だろう。」と書きましたが、それで、他の批評家までが怒ってしまい、私はその後五年間、文芸雑誌からボイコットされ、苦杯をなめました。
その後、「花芯」を二百枚に書き改め、三笠書房から出版しました。その広告に「子宮作家の傑作」とあり、うんざりしました。それでもまあまあの売れ行きでした。
私は私小説を書いたのではありません。本格小説のつもりで、すべて頭の中で作り上げた小説でした。ヒロインの外形だけは阿刀田高さんのお姉さんで同級生のとし子さんを借りました。
性における肉体と精神の離反を私は書きたかったのです。
あれから大方60年も過ぎた今、こうして魅力あるすてきな映画にして下さって、夢のようです。かかわってくださったすべての方々に深く深く感謝申し上げます。捨て身の特に全力で熱演してくださったヒロイン役の村川絵梨さんありがとう。
まさかというこの思いがけない幸運を冥土の土産に、94歳の私は、やがてあの世への旅に発つことでしょう。
その前に、自分の目で、この映画を観ることが出来、観て下さるあなた方のいることを知らされ、本当に幸せです。
すべてのお客さまに深く深くお礼を申し上げます。
有難うございました。

瀬戸内寂聴

 

瀬戸内寂聴さんが1957年に発表した当時はまだまだ封建的な状況があって、

女性は結婚するまでは純潔を守るとか女性の性欲を隠蔽するとかいう中、

直球で「わたし、覗いちゃいけない深淵を覗いてしまったの-」

ということを、描いてしまった。

 

パンフレットの中の村川さんとの対談における言葉も引用しておきます。

村川:「覗いちゃいけない深淵」というのは何のことでしょうか。
寂聴:セックスの極地です。極地といってもいろんな段階があると思うのですが、
     もうこれが最後、という官能的なセックスをしたら後はつまらくなってしまうという

         ことです。

 

この小説の冒頭は、不倫相手越智が

「きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ-」
そしてエンディングは
「私が死んで焼かれたあと、白いかぼそい骨のかげに、
私の子宮だけが、ぶすぶすと悪臭を放ち、焼けのこるのでは
あるまいか」

好きでもない夫との結婚における受け身の性の営みにおいて恋愛感情を抱いた相手越智とのセックスならどんなに官能的かと妄想するヒロイン園子ですが、紆余曲折あって越智との情事に行きついた園子がわかったことは恋愛感情と快楽はストレートには結びつかない。知り合いの青年とのセックスを試してみて愛とか恋とかから切り離され性愛そのものに浸りこむ喜びといったものを知ってしまったのですね。

寂聴さんの手紙にある文壇からのバッシングは文学という土壌だけではなく、社会そのものからのバッシングでもあったのでしょう。寂聴さんの凄みにぐっときました。

 

そして今、寂聴さんの「花芯」は上野千鶴子さん、湯山玲子さん流に言えば、「快楽上等」ということなのでしょう。

 

でもその湯山さんは最新の「anan」8/24号でこうも言ってます。

 

「しかし、当時より性は開放的になっているのに、日本女性は
男性に’誘わせる’のが基本と、まだまだ受動型。
自分の性欲を認めず、’男性からの導きがあったからヤる’という
言い訳が欲しいのです。
・・・・・・
セックスの醍醐味は、性衝動に正直になり、動物と化している姿も
受け入れてくれる相手を見つけることですから。
まずは、自分の性的欲求に責任を持ち、’さらけ出してこその人間だ’
と納得するのが第一歩。それに応えてくれるナイスなお相手から
得られる自己肯定感はSNSの「いいね」どころではなく、
生きるうえで必要な希望になるはず。また、それを得た女性こそが、
生き生きと輝くのだと思います。」

 

そしてぜひ読んでいただきたいので地下アイドルの姫野たまさんの論評。

http://realsound.jp/movie/2016/08/post-2495.html

一部引用します。

恋のない生活は、退屈で虚しいものです。しかし手に入れた後には、また別の虚しさが襲います。それでも女は花芯(中国語で子宮)に翻弄されることを、制御できません。たとえば私も自制心を失って、恋に落ちて、花芯の命じるまま生きて、果たしてその後いつ幸せになれるのでしょうか。私の子宮は何を求めて、どこへ向かいたいのでしょう。その恐怖から今日もなんとか平静を保って生きています。

 劇中でも館内でも流れ続けていたエリック・サティの「Gymnopédies」が、ゆったりと狂気を掻き立てるように、私の体の中でいつまでも響いているのです。

 

1993年生まれの「姫野たま」さんですが、見事に瀬戸内寂聴さん、映画「花芯」のコアをぐっと受け止めて自分の生に引きなおして消化しています。サティが狂気を掻き立てるってすごい感性です。

 

 

映画ということではやはり村川絵梨さんですね。

これまでのイメージを脱ぎ捨て肌はもちろん乳房乳首を丸出しでの濡れ場を見事に演じてくれてました。このすごい小説世界をこの映画においてまた別の豊かな世界として見せてくれてます。

個人的に大好きな女優さんの池谷のぶえさんも「村川絵梨ちゃん主演の映画「花芯」鑑賞。素敵でした。芯というか、体幹というか、独特の凛とした柱がちゃんとある素敵な女優さんね。」と。

そしてケラリーノ・サンドロビッチさんも「村川絵梨、俺もとてもいいと思います。」

 

本作はぜひ大スクリーンで村川絵梨さんの美しい裸身と深淵を見るのをオススメします。DVDになるとは思いますが、日常のテレビ画面ではその良さが半減するかもしれません。

ということで私は2回目を鑑賞しに映画館に向かうこととします。