意気揚々とカメラを買ったのはちょうど1ヶ月前でしょうか。ここから再起…そう思っていた日もありました。しかし、昨今の情勢はそんなに甘いわけがなく…。
そんなこんなで、最後にカメラを握ってから数週間が経とうとしていたことに気づいたときには絶望しました。その様子を見た身内から「ぐずってるなら成田ゆめ牧場に連行したるぞ」と言われる顛末(誰のことがバレそう)。カメラを握ることが憚られるなら、別の形で前を向くしかありません。先代機製過去写真の清算と、このブログですね。
というわけで、初めて新機材をお供にしたときのことを記事に起こしたいと思います。3〜4回連載になるかと。
初回である今回は、長旅の序章、宮城の地で見た光景から。
旅立ちの前に、試し撮りを除いた新機材での記念すべき1枚目を。
撮影後に少し手を加えているとはいえ、なかなかよさげ。青空が際立ちますが、これについてはそのうち機能紹介記事にて。白飛びしているのが少し残念かな…。
手前に大きくそびえ立つのは、あの日の記憶を今に伝えるモニュメント。犠牲となった方々の名前がその中に納められています。あの日の面影の薄くなったこの街に、なくてはならないものです。
そこから列車を乗り継ぎ向かったのは、
仙台駅からしばらくはそれなりに人が乗っていましたが、距離を重ねるにつれて乗客は降りていき、ここに着いた頃には疎らでした。
その様子は空港内にも表れています。
1年も続くと、もはやこの光景が"当たり前"と思う人も出てくるでしょう。しかし、私はそう思えません。この空港と東亜各地が結ばれていたことが"当たり前"じゃなくなってしまったように、こうして途絶えていることも"当たり前"じゃなくなる可能性があるはず。それはもちろん喜ばしいことだとは思いますが、そうすると"途絶えたという事実"は次第に忘れ去られる気がしてなりません。そう思うと、敢えてこの写真を撮ることに意味を感じます。
こういう状況だからこそ、記録に留める必要がある。そんな気持ちを抱きながらこの3枚を撮りました。「こんなこともあったよね」、そう笑える未来を信じながら。
そして、スペースのあるロビーにはこんなものが。せっかくなので仙台空港アクセス線とともに。
あの日からの継承、そんなことを思い浮かべながらシャッターを切りました。
しかし"絆"という文字、何とも考えさせられます。10年前に持て囃された言葉ですが、そこに込められた意味は、現在に通用しているでしょうか。ここで持論を展開する気はございませんが、「10年前のあの日を悼む行ないが回り回って、ここ数週間の宮城県の緊迫状態を作り上げた」という言説を見ると…なんて。
今回は所感多めでしたが、それぐらいにメッセージ性のある写真が撮れたのかな、と思います。
ちなみにこの後どうしたかと言うと、飛行機に乗って空の旅!!…というわけではなく、
というわけで、次回はそこでの写真をお送りいたします。(2021.04.07追記:こちら)
それでは今回はこのへんで…。