そんな大それたた話じゃないんだけど、
うちの親がクリスチャンという話を書いてて
ふと、その違いについて感じたこと。
個人的な意見なので、
適当に流してくださいね。
キリスト教を信仰していると
「神は愛である」
という言葉が示すように
イエス・キリストはその大きな愛をもって
わたしたちを受け入れてくださる
・・・というのが、おおまかな教え
(アバウトすぎるが・・・)
この点では、ぢんさんの
「どうせ愛されてるし~」
という、心屋を代表するフレーズ
『愛』 が
大前提なのは共通
しているところだと思う。
しかし、私が考えるところの決定的な違いは
『反省しない』
ところだと思う。
キリスト教でよく耳にする言葉に
「悔い改めよ。そうすれば救われる』
というフレーズがあるが、
悔い改めるということは、
罪を犯していることを前提に
それを認めて、
反省する必要があるということだと思う。
ぢんさんは、
「反省するということは、
そのステージを繰り返すことになるので
ステップアップはできない」
と言っている。
なので、キリスト教の教えのように
反省することで、自分を責めることになり、
いつまでも、その罪の意識を持って、
人間は常に弱い生き物である・・・
というネガティブな感情を持っているから
常に、みえない恐怖に対して
祈り続けていかねばならないのだろう。
そういう観点から、
私にとっては、
心屋仁之助 は
イエス・キリスト 以上の
存在になったのである。
*これはあくまでも個人の見解です。
キリスト教を愚弄するつもりは毛頭ありません。
どうぞ好きにやってください。