人に備わった力 理解の範疇を超えてゆけ。

人に備わった力 理解の範疇を超えてゆけ。

なぜベストを尽くさないのか。



Champion System 稲城クロス

 

今回の稲城(いなぎ)クロス観戦で、まず強く印象に残ったのは


『弱虫ペダル』作者・渡辺航先生の存在


実際にレースに参加し、会場ではサイン会まで行う。

 

 

渡辺先生がいるだけで、イベントの新規層の獲得やメディア露出に繋がる。

 

自転車業界にとってこれほど分かりやすく、これほどありがたい存在はそう多くない。


文化を作る人間が、同時に現場にもいる。


それを当たり前のようにやっているところに、改めて凄さを感じた。

 

そして今回の稲城クロスの感想を一言でまとめるなら、

 

この大会の良さは、MCに集約されていた

 

会場レイアウトを工夫し、観客の目の前に現れる選手一人ひとりを、きちんと拾う。


順位や有名選手だけでなく、

今、ここを走っているこの人

を拾う。

 

自転車競技のMCは、どうしても

トップ選手
注目選手
実績のある選手

得意な話題

に寄りがち。

 

しかし今日は違った。


実況は常に「今起きていること」を捉え、観客と同じ目線でレースを追っていた。

 

その結果、レースの中に参加しているようなライブ感が生まれていた。

 

 

 

競技を続けていると、余裕が生まれ、周りが視えて次第に解ってくる。

 

MCがいないとイベント自体が成り立たないこと。


そして、そのMCも血の通った人間であることを。


話しかけやすい選手
日頃から感じのいい選手

 

そうした人は、実況や紹介の中で拾われやすい。


逆に、

 

態度が悪い選手

絡みにくい選手

嫌な印象を残す選手


これらの選手は徹底して避けられる。

 

話題に取り上げられるのと干されるのでは、イベントの存在感に大きな差を生むのだ。

 

近年は、自転車イベントにおいて

MCの質

そのものが注目され始めていると感じる。(というか注目している)

 

極端な内輪ネタ。


自転車界隈特有の自虐ネタ。


分かる人だけが笑い、初めて来た観客は置き去り。

 

盛り上げようとしている意図は分かる。


だが結果として、観客をドン引きさせてしまう。

 

実際話題にはならなかったが、今年私が観に行った某レースでも、自転車界隈特有の下げネタが続き、聞いていて不快になった。

 

だからこそ、今回の稲城クロスのMCは際立っていた。


コース上の全員が主役。

 

その立ち回りは、参加者にとっても、観客にとっても、そして動画やSNSを通じて競技を見る一般の人にとっても、重要なメッセンジャーとしての役割を果たしていたと言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

蛇足

なお、非常に満足度の高い一日だったのだが、個人的に一つだけ許せないことがある。

 

なぜか私にだけ、やたらと虫がまとわりついてきた。

あれは一体、何の試練だったのか。


そこだけは本当にショックだった。

 

 

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大会HP⇒千葉シティトライアスロン

 

横軸評価が必要な理由

大会に参加する前、人は何を見るか。

 

リザルト

写真

表彰の様子

SNSで共有される空気感

 

そこに映るのが
「速い人だけが価値を持つ世界」
であった場合、どう感じるだろうか。

 

初心者、女性、仮装・コスプレ参加者はきっとこう判断するだろう。

 

「自分は場違いだ」
「行っても評価されない」
「楽しそうだが、参加する側ではない」

 

つまり縦軸しかない文化は、無意識に参加者をふるいにかけている。

 

さらに初参加者が経験する現実は、

順位は下位

表彰とは無縁

自分が何を評価されたのか分からない

ただ走って帰るだけ

 

人は、何の為にこの場に存在しているのかが分からない場所には、長く居つかない。

 

だからこそ「横軸評価」が必要なのだ。


賞を増やすことは、順位を否定することではなく、

「あなたを見ています」

という運営の姿勢を形にする行為のひとつである。

 

ここによくある誤解がある。

 

横軸評価と縦軸評価は同居しない

 

それは違う。

 

横軸評価とは、どこを見ているかを明確にすることだ。

 

速さを見る

継続を見る

工夫を見る

姿勢を見る

 

これらの評価制度をバランス良く取り入れていたのが

「キャラクターデュアスロン」

である。


このイベントは数字だけではなく参加者に向き合い、一緒に文化を育てようとしている姿勢がみてとれる

 

だから手放しに応援したくなる。

 

今回は、

「どうすればキャラクターデュアスロンをもっと盛り上げられるか」

を徹底的に考察していこう。

 

未開拓層への視点

コスプレクラスを取り扱うということは、

・コスプレイヤー

・ロードレーサー

がターゲットになる。

しかし現状はどうだろうか。

 

どうしてもロードレーサー側に寄ってしまいがちになる。

 

つまり、コスプレイヤーに対してのアプローチが手薄になっていると言える。

 

中にはキャラスロンを知っていて、参加を検討した人もいるだろう。

 

では、なぜ参加するに至らなかったのだろうか。

 

仮説だが、

①自転車所有のハードルが高い

②衣装だけで荷物が限界

③参加費用のハードルが高い

④多くの女性にとって完走できるかの心理的負荷がある

が挙げられる。

 

 

一般的なコスプレイベントの参加費は、1,000円〜3,000円程度。

 

それに対してキャラスロンは18,000円

 

さらに自転車所有・輸送の負担が重なる。

 

面白そうだけでは超えられない壁が存在している。

 

具体的な提案

問題を解消する方法は非常にシンプルだ。

 

①自転車レンタル制の導入
自転車を持っていなくても参加できる設計にする。

 

②短距離・初心者向けコスプレクラスの新設
参加費を抑え、試しに出てみるを可能にする。

 

③自転車と無関係なコスプレイヤーをアンバサダーに
コスプレイヤー文化とつなぐ役割を明確にする。

※既存のロードレーサーアンバサダーは継続⇒ロードレーサー側への影響が大きい。

 

④コスプレクラス向け横軸表彰のさらなる充実
表現・世界観・工夫・タイムリーさを評価し、コスプレイヤーだからこそ活躍できる場を整える。

 

横軸評価を考える

キャラスロンを初めて知った時、その表彰制度は既に完成されていると感じた。
 
なので従来の良さを残しつつ、実現可能な評価制度を考えてみた。
 
総合タイム賞(既)
痛バイク賞(既)

敢闘賞

仮装賞(コスチュームクオリティー/コンセプト/トレンド)

ペア賞(家族/友人/恋人)

完走賞

ルーキー賞

継続参加賞

 

一番推したいのが

「SNS貢献賞(後日表彰)」だ。

 

以前勤めていた会社で販促活動をしていた。

 

その経験から語ると、狙ったエリアへ3万件ポスティングし、新規が10件増えれば成功と言われる世界だった。

 

コスト・人手・時間

 

すべてをかけて、その程度である。

 

一方で、今年のキャラスロンではSNS投稿がバズった参加者が何人かいた。

 

 

 

 

写真1枚、動画1本が、数万件分のポスティングと同等、もしくはそれ以上の価値を生んでいる。

 

しかも、費用はほぼゼロでイベントの空気感がそのまま伝わる。

 

主催側にとって、これほど効率の良い広報は存在しない。

 

SNS貢献賞は参加者の貢献度を形にしつつ、広告費をかけずに広告塔を得る仕組みだ。

(期間を決めることと、後日表彰という変則さが運営の負担になる)

 

まとめ

繰り返すが、キャラクターデュアスロンは既に魅力的な評価制度が備わっていて、数字ではなく参加者に向き合う姿勢を持つ素晴らしいイベントだ。

 
だからこそ、コスプレクラスで取りこぼしてきた人々を掬い取れる可能性が大いにある。
 
その可能性に懸け、さらにパワーアップしたキャラクターデュアスロンになることを期待したい。

 

 

 

 

 
 

日本一高い山・富士山の麓。


森に囲まれた静かな場所に、少し変わった水族館がある。

 

その名も

「森の中水族館。」

 

森の中の水族館。公式サイト

住所:山梨県南都留郡忍野村忍草3098−1 さかな公園内

 

入館料は大人420円、小中学生200円(土曜日は無料)とかなり安め。

 

館内に入ると、まず感じるのは落ち着いた雰囲気。


淡水魚を中心に、身近な生きものから少し珍しい種類まで、丁寧に展示されているのが印象的だった。

 

特徴として、透明度の高い富士の湧水を使用した水槽や、二重回遊水槽を売りとしている。

だがしかし、この水族館が

「日本一面白い」

と言いたくなる理由。


それが、飼育員によるコメントである。


水槽に添えられた解説文が、ただの説明にとどまらず、思わずクスッと笑ってしまうものばかり。


生きものの特徴や性格を、独特の視点とユーモアで伝えてくれるので、読むのが楽しくてつい足を止めてしまう。

 

今回は、そんな飼育員の「名コメント」を一部紹介したい。

↓↓↓

「群れると狂暴だが、一匹になると大人しくなるのは人間と同じだなと感じる。」

「いつの間にか和名が変わっていた...な...何を言っているのかわからねーと思うが俺も何をされたのわからなかった...」

「プロが調理してもどうにもならない程泥臭いので、勇気のある人は挑戦を。」

「海外の熱帯魚は流石の鮮やかな体色だが、日本のタナゴも負けてないと私は主張します。」

「展示が終わっても食べることは無いのであしからず。」

 

「最初にカニを食べようと思った人の勇気は凄いと思う。」

 

ここで紹介したものはあくまで一部に過ぎず、他のコメントは水族館で観ることができる。

 

派手さはないが、じわじわと味わい深い。


生きものと、それを愛している人の距離が近い水族館。

 

それが「森の中水族館。」なのである。

 


↑身長170cmの私と張り合えるライバルがここにいた。次は負けない。

近年、公道で開催される自転車ロードレースにおいて、レース中にもかかわらず車両がコース上に存在する事例が相次いでいる。

 

正確に言うと、SNSや動画投稿サイトによって更に可視化されるようになった。

 

2023年のツール・ド・北海道では、レース中のコース上に一般車両が存在し、選手が正面衝突し命を落とすという最悪の結果に至った。

"ツール・ド・北海道"死亡事故を受け…協会の理事長ら3人を業務上過失致死の疑いで書類送検へ…ロードレース大会でコースの安全管理対策を怠る―男性選手が対向車線にはみだし乗用車にはねられ死亡(北海道ニュースUHB) - Yahoo!ニュース

 

2025年の小野こまちロードレースでは、パレード走行中とはいえ片側走行で車と対面する状況が生まれている。

 

 

 

 

裏磐梯スカイバレーヒルクライムでも、複数回にわたり自家用車がコースへ侵入し、選手と接触しかけた事例が確認されている。

 

 

これらに共通するのは、

「たまたま事故にならなかった」

だけで、危険な状態そのものは存在していたという点である。

 

まだ可視化されていないだけで、他にも同様に危険なイベントは全国的にあるだろう。

 

主催者側の説明としてよく聞かれるのが、

「ボランティアを含めた人手不足」

という言葉である。

 

であるならば、

人手が足りない⇒車両の完全排除ができない⇒レースとしての安全が確保できない⇒開催しない、もしくは形式を変更するといった運営判断をするべきだ。

 

人手不足を理由に、危険な運営を承知のうえで開催するのであれば、それは安全軽視の判断と評価されるのは当然だ。

 

多くの大会では、

 

事故が起きなかったから問題ない

接触しなかったからセーフ

これまでもやってきたから大丈夫

 

所詮その程度の安全意識なのである。

 

ツール・ド・北海道の事故は、

「事故が起きる可能性が排除されていたか」

全国の主催者に問題を投げかけた。

 

事故が起きなかったことと、安全だったことはイコールではない

 

問題は運営判断だけではない。

 

出走前の安全説明も、

 

選手が分散したままのアナウンス

会場BGMが邪魔して音量が足りず後方には聞こえない状況

事前に注意事項を読んできただろうという意識

コースを横断する観客も選手と同等の当事者であるという考えがない

 

これでは、重要な注意事項が全員に伝わっているとは言えない。

 

どの主催者でも簡単に実行できる改善策は、

 

全選手を招集する

大音量で明確に通達する

危険箇所・車両侵入の可能性・ルールを端的に伝える

これだけでも、リスクは確実に下げられる。

 

さらに重要なのは、

 

その説明を理解したことを出走前に確認する仕組み

「出走前サイン」

である。

 

サインを求めることで、

 

運営側は「説明した」ではなく「確認した」と言える

選手側は「聞いていない」「知らなかった」が通用しなくなる

危険を自分事として認識せざるを得なくなる

 

JCF・JBCFレースでは、選手にとっては面倒くさい形骸化した行為の一つに過ぎなかった。

JCFレースとなったことで出走サインが義務付けられた | cyclowired

 

しかし、そこに意味を持たせることが出来れば、アマチュアレースでも簡単に導入でき、効果のある策になると思う。

 

もう一つ、問題となっているのが選手側の姿勢だ。

 

開会式や注意事項説明の場で、談笑したり注意を払わない選手が少なくないことは、以前から感じてきた。

 

聞かなくても走れる

何かあれば止めてくれる

これまで大丈夫だった

 

という空気を大会側が作ってきた結果や、死亡事故が起きているのに意識を改善しない選手の危機感の無さの結果でもある。

 

選手の意識を高めるには、単なる注意喚起では足りない。

 

全員集合もしくは該当選手の出走前招集

明確な説明と適切な音量

理解確認のサインを出走サインとする

 

こうした仕組みがあって初めて、選手は

「聞く必要がある」

と感じ、このような仕組みを作らなければいつまで経っても意識は変わらない。

 

全国のイベント主催者には、正しい安全基準と選手に向き合う姿勢、意識変革を促す仕組みが求められているのではないだろうか。

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キャラクタエンデューロ(旧GSRCUP)

キャラクターヒルクライム

あぶくま洞ヒルクライム

キャラクターデュアスロン

バイクランド幕張


これらの大会は、コスプレクラスという独自の企画で多くの参加者を集めている。


楽しむ方向性を広げた点は評価するが、その一方でどうしても拭えない違和感がある。

 

それは 表彰制度の欠陥」 だ。


大会によっては男女を分けて表彰する場合もあれば、男女混合で単純な着順だけで表彰してしまうケースもある。

 

参加者が多いにもかかわらず、カテゴリ分けもなく「まとめて順位だけ」という大会も存在する。

 

 

日本の教育では、スポーツでも勉学でも

 

成績

順位

点数

 

といった「縦軸」の数値が正義になっている。


年配世代と接すると嫌でも感じるが、彼らは数字こそ平等で正しいという価値観を疑わない。


その結果、数字に追われてスポーツや勉強が嫌いになった若者は少なくない。

 

私もそのうちの一人だった。

 

一方で海外には、学校体育であえて順位をつけず、その影響で大人になってからランニングを楽しむ人が多いというデータもある。


数字で縛られない文化では、

運動=自分のペースで楽しめるもの

として根付くのだ。

 

だからこそコスプレクラスは本来、

「縦軸の評価ではなく横軸の楽しみ」

をつくる意義ある企画だったはず。


ところが実際には、昭和的な「縦の価値観」に基づいた表彰・運営がそのまま残ってしまっている。

 

先日行われたバイクランド幕張がその違和感を確かなものにした。

 

私が主催者に伝えたいのは非常にシンプルだ。

 

本当に価値観はアップデートできているか?
現状に満足し、未来の参加者のニーズを見落としていないか?

 

コスプレクラスを設けている時点で「横の動き」を取り入れたはずなのに、中身は「縦の評価」が中心。

 

イベントとしてのお祭り感と、競技としての「公平性」が混ざったまま運用されてしまっているのだ。

 

もう一つ気になるのは、「男女差の理解」が浅い点である。

 

男性と女性が1か月、同じ時間・同じ強度で練習をしたとする。

 

その結果、男性が勝るのは明らかである。

 

そもそも女性が1か月、男性と同じ内容のメニューを毎日実行することは、困難を極める。

 

ホルモンバランスの変化、出血、体調不良など、避けられない負担を強いられる。


それでも彼女たちは顔にも出さず競技に挑んでいる。

 

男性と同じカテゴリに振り分けられ、文句を口にすることなく、結果だけを受け入れている。

 

声をあげれば、周囲から白い目で見られ、浮いてしまうから。

「軟弱だ。努力が足りない」と一蹴されてしまうから。

 

だから私が代わりに声をあげるのだ。

 

主催者がその背景を理解し、敬意を払ったうえでカテゴリ設計や表彰を考えることが、絶対に必要なことなのだと。

 

「混合で上位だけ表彰」という運営では、女性が不利になるのは当然である。

 

それで許されてきた昭和の価値観は、今すぐ淘汰されるべきだ。

 

 

縦軸を否定するつもりはない。

 

縦の評価というのは、誰でも一目で理解しやすく、間違いのない絶対的な指標だからだ。

 

しかし、現代の人間は「種の生存本能」が薄れ、「横に逸脱する」挙動をみせている。

 

それは、現代の社会で生き残るために見出した進化に他ならない。

 

刹那の間に凄まじいスピードで変化する人間に対し、主催者が自分たちの価値観をどれだけアップデートできるか。

 

コスプレクラスが参加者を増やす飛び道具で終わるのか。


それとも新しい文化を育てる挑戦になるのか。

 

私が求めるものは、参加者=人間に向き合う姿勢そのものである。

 

バイクロアからバイクランドへ。

秋ヶ瀬から幕張へ。

その変化は単なる名称・場所替えにとどまらず、イベント全体の「ワクワク感」をさらに強化していた。

秋ヶ瀬で感じていた独特の高揚感や自由な空気は失われるどころか、むしろ規模が増したことで、より完成度の高い場へと進化したように思う。

 

従来の「ゆるっと楽しめる」雰囲気も健在であり、参加者と観客が自然に混ざり合う空気感はそのまま受け継がれていた。

 

自転車競技にとどまらず、ドッグランレース、ラジコンレース、ランニングレースを同時に展開。

 

会場内では木工や卓球、木琴といった知育ブースも設けられていた。

 

 

これらの多様なコンテンツにより、家族連れが一日中飽きずに楽しめる「総合イベント感」があり、親子で訪れる姿が目立っていた。

 

一番難しいとされるタイムスケジュールに関しても、ほとんどのレースが予定通りに進行していた点は素晴らしい。

 

 

特に目玉であるオウルクラスの「魑魅魍魎レース」に向けての流れが丁寧に設計されており、観客としても自然にテンションが高まる構成になっていた。

 

 

一方、気になった点もある。

 

会場内のアナウンスとBGMの音量バランスが悪く、肝心のアナウンスが聞き取りづらい場面が多かった。

 

競技前説明も手持ちハンドホンで行われていたため、広い会場の奥まで音声が届かず、観客だけでなく参加者にとっても情報伝達が不十分に感じられたのではないだろうか。

 

演出面が良くできていただけに、この点が惜しく感じた。

 

もう一点。

 

オウルクラスには約70名ものエントリーがあり、速さを競う本格的な選手から、友人同士で同じゲームキャラクターのコスプレを楽しむ参加者、さらには親子でエントリーしたケースまで、多様な顔ぶれが揃っていた。

 

撮影中、近くの家族が

「あのキャラクターなら私たちでも参加できそう」

と語っており、バイクランドのレースそのものが新規参加のハードルを下げる役割を果たしている。

 

しかし残念だったのは、表彰が「着順3名のみ」であった点である。

 

結果的に男性のみが表彰台に上がる形となり、女性参加者には何の評価もなかった。

 

実際にはレースを盛り上げていたのは参加者全員であるにもかかわらず、評価軸が速さ一つに限定されていたため、イベントの多様性と淡白な表彰制度の間に相対的な違和感を感じた。

 

これはバイクランドに限った話ではないが、そもそも女性人口の少ないイベントは、女性にとって参加ハードルが非常に高い。

 

それでも参加する女性参加者への敬意や配慮、ホスピタリティが従来の運営ではやや欠けているのではないか。

 

女性参加者の置いてけぼり感が否めない。

 

男女別表彰やコスプレ賞、親子賞、アイディア賞など、縦軸ではない横軸の評価基準を設けることで、より公平で一体感のあるラストを飾れるのではないかと感じた。

 

 

とはいえ、全体としての満足度は非常に高く、楽しい時間を過ごすことができた。

 

来年も必ず参加したいと思わせるイベントであり、次回の開催にも期待したい。

 

 

 

 

ここ数年、日本の裁判、とくに性犯罪や死傷事件に対して

 

「外国人に有利ではないか」

「被害者が置き去りにされている」

 

といった疑問が多く残る。

 

量刑が不自然に軽く見えるためだ。

 

しかし本当に問題なのは、

日本の司法そのものが曖昧すぎること

 

日本では、量刑の基準がはっきり決まっておらず、裁判官の裁量が大きい。

 

そのうえ判決理由の説明も十分ではなく、判断の妥当性が見えにくい。

 

こうした曖昧な運用が続けば、外国人の事件に限らず、今後も不条理な判決が生まれ続けるだろう。

 

「司法責任法」

 

そこで注目したのが、アメリカで議論されている「司法責任法」である。

 

アメリカで言われる「司法責任法」とは

 

①裁判官の判断へのより強い説明責任
判決理由のより詳細な公開
判決後の審査制度の強化

 

②裁判官への懲戒制度の強化
不適切判断・怠慢・偏見が見られた場合の処分を厳格化する動き

 

③被害者への情報公開や権利強化
性犯罪や暴力犯罪での量刑ガイドラインの整備など

 


判決の透明性を高めるための制度改革を総称したものが「司法責任法」である。

 

日本でもこれに近い仕組みを導入すれば、司法の在り方が大きく変わるだろう。

 

特に期待しているのが、裁判官への懲戒制度だ。

 

「犯罪者の再犯率」に本当の意味で向き合うことが出来る。

 

さらに司法責任法的な改革が導入されれば、

 

・判決理由がより明確に示される

・裁判官の判断の偏りが外部からチェックできる

・量刑の基準が整い、裁判ごとの差が小さくなる

被害者の立場を軽視した判決が是正されやすくなる

 

これらは、現在の司法が抱える根本的な問題を改善するために不可欠だ。

 

日本で犯罪が起きた以上、守るべきは日本社会の秩序と安全である。

 

加害者の背景や事情よりも、まず被害者や被害者家族が適切に救われる司法でなければならない。

 

司法責任法の考え方は、そのための重要なヒントとなる。

 

司法のみならず、現代の政治や教育業界への不信感は深まるばかりである。


そんな日本を立て直す第一歩として、司法責任法的な改革を真剣に検討する必要があるのではないだろうか。

 

自転車界隈では、イベント運営への不満や改善点をSNSに書かない人が多い。


中には「主催者への感謝が第一であり、不満を書くのは下品だ」という意見さえある。


確かに、主催者が労力をかけてイベントを開催していることへの敬意は必要だ。

 

しかし、参加者が何も言わない状況は、結果として運営の質を下げ、イベント文化全体の成長を止める要因にもなっている。

 

「自分たちはアスリートではなく、趣味人にすぎない。だから主催者に不満を言うなんておこがましい」

という考え方が一定数存在する。

当時の私もそのうちの一人だった。

 

この価値観は、

 

・イベントに参加できることへの感謝

・主催者への敬意

・謙虚さ

 

といった美徳に基づいているため、理解はできる。

 

しかし今となっては、それらを理由に意見を出さないことが正しいとは思わない。

 

むしろ、声がないことは運営にとって

「問題がない」

と誤認される原因となり、イベントの改善を妨げる。

 

では、何故口コミが増えないのだろうか。

 

自転車イベントで口コミが増えないのは、参加者の怠慢ではなく、複数の構造要因が絡みあっていると考える。

 

①参加者が「趣味人」で、自意識が低い

マラソンやトライアスロンのような「レポ文化」が育っておらず、記録を文章に残す意識が弱い。
「レースレポを書くのはガチ勢」という空気もあり、一般層は発信しにくい。

 

② 年齢層が高く、SNS発信率が低い

自転車界隈は40〜60代が中心で、SNS文化と距離がある。
そもそも「書く」という習慣自体が弱い。

 

③運営側が「フィードバック導線」を設計していない

完走後にアンケート導線がなかったり、感想投稿の仕組みが用意されていなかったりする。
口コミが集まらないのは、「書ける場が提供されていない」ことが大きい。

そもそも参加者の声の重要性を理解していない。

 

④ネガティブな発信が叩かれる空気

「主催に感謝しろ」「文句を言うな」という圧力が強く、不満を書くと悪者扱いされることがある。

主催側の「開催してやっている感」が強く、杜撰な運営が目立つ。
この空気が参加者の発信意欲を削いでいる。

 

⑤市場が未成熟で、比較文化が育っていない

宿泊や飲食のように口コミが市場の基盤となっているジャンルと違い、自転車イベントは比較対象が少なく、レビュー文化が育ちにくい。

これらが複合的に絡むことで、
「口コミが少ないのは当然の構造」
になってしまっている。

 

参加者が何も言わないと、運営は未来の改善判断を誤る。

 

・ボトルネックが見えない

・初心者が困っている点が分からない

・参加者のニーズが把握できない

 

その結果、イベントの質は上がらず、新規参加者が増えにくくなる

 

運営にとって最も価値があるのは、参加者の生の声である。


不満を書けというのではなく、建設的な声が必要なのだ。

 

現状、自転車イベントは口コミが極端に少なく、市場の透明性が低い。

 

では、レビュー文化を拡げるにはどうすればいいだろうか。


私は最初に

「口コミ〇字以上で500円バック」「口コミ〇字以上で参加証プレゼント」などのインセンティブ施策が浮かんだ。

 

多くの業界で既に一般的に使われており、

 

・フィードバックの質が上がる

・新規参加者の判断材料が増える

・運営にとって貴重な改善情報が集まる

 

というメリットがある。

 

このインセンティブ制度を設けることで、今後値上げしたとしても、口コミを書いてくれる有益な参加者は、値上げ前の参加料でエントリーすることが可能になる。

 

「口コミする」という行動にメリットを与えることで、参加者の質を育てていくことが出来る。

 

運営予算が限られるからこそ、少額のインセンティブで「改善情報」を集められる仕組みはもっとも簡単に成果の出せる政策なのではないだろうか。

 

自転車イベントがより良くなるには、主催者だけではなく参加者も「声を共有する文化」を考え、共に成長していくことが不可欠である。

現代教育は「多様性を尊重する」と表向きでは謳っている。


しかし、現場で重視されているのは依然として 

 

順位

点数

偏差値

 

といった「縦軸」の物差しである。


その結果、人々は

「結果=絶対的価値」

という評価観を持ったまま大人になり、社会に出てからも

 

勝った者だけが偉い

数字が全て

目に見える成果以外は評価に値しない


という思考になってしまう傾向にある。

 

この教育的背景こそが、スポーツ大会や文化イベントの運営にまで影響し、
「順位だけを評価すればよい」

という固定観念を温存させている原因になっている。

 

運営側は多くの場合、
「大会とは順位を決める場である」
という前提を疑わない。

 

しかしこの前提はあまりにも古く、文化の発展を阻害している。


スポーツや芸術は、

 

表現

創造

斬新さ

観客を巻き込む力
単純な勝敗を超えた魅力

 

といった「横軸の価値」を内包するものであるはず。

 

縦軸だけに焦点を当てた大会設計では、観客が大会の空気に乗れず、選手が挑戦よりも無難なプレーを優先し、結果として文化全体が閉じていく。

 

これは教育の呪縛と同じ構造であると言えるだろう。

 

 

では、どうすれば運営負担を増やさずに、「横軸の価値」を大会設計へ組み込むことができるだろうか。

具体策を考えてみた。
 

①観客投票制度

観客が最も「魅せた」と思う選手に票を入れる方式。
運営の主観を排し、透明性が高い制度。

 

運用

・レース中、もしくはレース後10分間のみ受付

・QRコードで即時投票

・自動集計システムを用い、人手ゼロ

 

得票上位者に「表現賞」「敢闘賞」を授与

これにより、運営の負担は最小限。
観客参加型の「文化づくり」を促す。

 

② 選手投票制度

選手自身が互いの挑戦や表現を評価する制度。
縦軸では拾えない価値を、当事者が見抜く仕組み。

 

運用

・「積極性」「大会貢献度」など項目別

・シリーズ戦であれば年間ランキングとして蓄積

 

選手間の相互理解が深まり、競技文化としての厚みが生まれる。

 

③ 事前エントリーでの「自己PR記述欄」

選手が「今回の大会で何を目指すか」「どう盛り上げたいか」を言語化。

評価だけでなく、選手の意識そのものを「表現の方向」へ誘導。

 

運用

・記述欄は50〜100文字程度

・運営は大会公式SNSで一部紹介

・観客投票の参考情報としても活用可能

 

選手の動機を可視化し、観客との心理的距離が縮まる。

コンテストで用いられる手法のひとつ。

 

④ SNS連動型の「プレゼン賞」

大会前後にSNSで「大会を盛り上げる投稿」を行った選手を評価する制度。
文化の拡散に直結。

 

運用

・大会ハッシュタグを使用

・投稿の反響(いいね・コメント数)を自動集計

・運営が表彰し、公式アカウントで紹介

 

縦軸では拾えない「周辺領域の貢献」を正当に評価できる。

運営は選手に宣伝してもらえる/選手は賞をもらえるWinーWinの構図。

 

 

従来の制度を変えるのも変わるのも、運営だけではない。


実際に競技を支えるのは選手であり、その声こそが最も価値あるデータである。

 

しかし情熱はあるが口下手な選手が多く、運営側にその情熱の風が届きにくい現状がある。

 

もしも選手と運営の間で、

 

・意見交換

・改善案の受け入れ

・制度提案

 

が為されれば、「文化版の民主主義」を築くことが出来る。

 

口下手なのを言い訳に、

「誰かが言うだろう」

と沈黙してきた構造そのものが、文化を停滞させてきた。


これを覆すには、一人ひとりの声が必要である。

 

意見を持ち寄り、制度として形にしていく未来こそ、本当の意味での多様性であり、文化の持続性でもある。

縦軸の評価だけが間違っているとは言わない。

しかし運営と選手が「縦軸」「横軸」の両方を意識しはじめたとき、時代は大きく舵を切る。

女性専用パウダールームに入り込む中年女装者

女性下着店で店員を困らせる女装者

レディース服を何着も試着して買わずに戻していく中年女装者

その写真・様子を嬉々としてSNSにアップロードする者

それに賞賛のコメントをする者

 

いずれも珍しい例ではない。

SNSで頻繁に見かける日常風景になった。

 

これらに共通しているのは、

自制心の欠如

他者への配慮の完全な欠落

である。

 

 

女性専用パウダールームに侵入する中年女装者

 

女性が安全に身だしなみを整えるために存在するパウダールーム。

 

そこに男性の身体を持つ者が女装して入ること自体、本来ならありえない。

 

にもかかわらず

「自分は理解があるから」

「女性の恰好をしているから」

と言い張り、当然のように利用する。

 

女性下着店に入る女装者

 

女性下着店は、女性にとって繊細な空間である。

 

そこに男性の身体で入り、商品を広げ、店員に特別対応を求める。

 

店員、女性客に不快感や不安を与えるのは当然だ。

 

それでも当人は

「客なんだから」

「差別するな」

と開き直る。

 

レディース服を試着する中年女装者

 

レディース服を何着も試着し、購入もせず戻す行為。

 

女性の体型に合わせた服を男性の体格で引っ張り、伸ばし、汗をつける。

 

それを買うのは女性なのに。

 

「流行だから」

「ジェンダーレスだから」

と言い訳するだけで、自分が他者に与える不快感をまったく想像しない。

理解ろうとしない。

 

 

もっと深刻なのは、こうした行動を界隈の内部がまったく止めようとしない点である。

 

あまつさえ賞賛するコメントで溢れかえっている。

 

そのためモラルの低い行動が野放しになり、界隈全体が腐敗した。


これが、彼ら自身の行動が積み上げてきた当然の評価である。

 

 

 

女装という行為を否定はしない。


しかし、

女性専用空間や女性向け商品の意味を軽視すること

他者の安心より自分の快だけを優先する行動

は単なる趣味ではなく、無責任な迷惑行為でしかない。

 

女装を趣味とする者としても、

男性としても、

人間としても、

表現者としても、

不出来で、質が低く、

人間的魅力もなければ、知性も感じない。

 

現在、そんな中年女装者によって女性が日常的に使う空間が脅かされ、安心が失われている。