マタニティマークで思うこと | 「あなたにも レメディ あげたい♪」

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ホメオパシーの処方をする人を「ホメオパス」と呼びます。
クラシカルホメオパスの「しょこぷ」、だから☆しょめおぱす☆
日々のあれこれを書いてるよ☆
(更新日:不特定 更新時間:夜0時です♪)


Facebookを利用している私には、いろいろな方面で活躍している方がFBFにいらっしゃいます。

ここ何日か、よく見かける記事があります。
(この記事を書いている日は、掲載している時よりずっと前です)

マタニティマークを付けているけれど、誰も席を変わってくれた人はいない・・・といった類の話でした。

ある妊活サポーターのお仕事をしている方は、お仕事とご自身の熱意もあって、この記事に触れてコメントをしているようです。

私自身、このマークを付けている人を見かけることがあまりないので、体験談は数える程度しかありませんが、ひとつ印象的だったできごとをお知らせしつつ、前述の人の話も含めて、みなさんと一緒に考えたいと思います。

この春のことでした。

あるカフェに友人と行ったところ、休日だったこともあってか、結構な混みようでした。
お店の前には順番待ちの人がズラズラと。
私たちも最後尾に並びました。

カフェなどによくある事ですが、お店の前には何人かが座れる椅子が用意されていました。
しばらくすると、私たちも座れるようになりました。
私たちが座る事の出来る最後の2人となっていて、次の人からは立っていました。

私の方が先に座り、友達がその次(=最後の椅子)でした。

次に待っている人たちは、どうやらご夫婦。
奥様はおなかがとても大きくなっていて、壁に腰を当てて立っていたので「支えがあると楽なんだろうな」と、私は思いました。

椅子に座っている順番からして、私が立つと、友達との間に空間ができるようになるので、友達に「私の所へ座って」と促し、私は立ち上がりました。
友達はきょとんとしていましたが、移動してくれました。

最後の1つの椅子が空く状態になって、私は「よかったらおかけください」と、その奥様に勧めました。

奥様は「いえ、大丈夫ですから」と遠慮しました。

私は、引っ込みがつかなかったわけではありませんが、譲った事と、遠慮をしている可能性を考えて、ずっと立ち続け、友達とおしゃべりを始めました。

空けた席は、それからしばらく空いたままでした。

奥様が最初に「大丈夫」といった時の表情は、硬く、少々「余計なことをしたのだろうか」とこちらが感じるものでした。
でも、妊婦さんは時に、感情も複雑になっているのは理解しているので、そこは気にせずにいました。

しかし、しばらくその席が空いたままになっているので、もう一度勧めようか、それとも知らん顔をして座るのが最近のマナーなんだろうかと頭で考えながら、友達と話していたら・・・

だんなさんが奥様に「座ったら?」と促してくれました。

その一言で、ようやく奥様は腰をかけました。

前述のマタニティマークを付けている人たちが「席を譲ってもらえない」と言うのに対し、この奥様の雰囲気は逆の意志を感じました。

妊婦は病気ではない
譲られるような体力ではない
弱者ではない

そんな「かたくなさ」を感じてしまいました。

それを感じた理由は、最初の反応もそうですが、座った時にも、その後に席を案内された時も(私たちが案内された隣の席に案内されていました)、お礼が一言もなかったのです。

お礼を言われたかったからこのように言っているのではないことは、ここで念を押さなくても、みなさんはきっとご理解いただいていると思います。

笑顔だけでも見られれば、私もホッとしたのかもしれませんが、なんだろう、譲ったことに「余計なことをしたのかな」という感情がよぎってしまう、この後味の悪さ。

一方で、譲ってもらえないと訴える人たちがいる。

人それぞれ、感情も性格も、好みも何もかも違うので、一概に「これがいい事」と言えないのは、ホメオパスをしている手前、分かっているつもりですが、それでもマナーというものが存在するのも知っています。

自分に不都合なことを「親切」として(知らない)誰かがしてくれた時は、「そういうことはいらない」と突き返すことを選択する人もいれば、「(ありがたくはないのだけど)ありがとう」と言う人もいます。

どちらを選ぶかは、その人に寄ります。

「いらない事だけど、お礼を言っておく」方が、自分の気持ちが楽なのか。
それとも「いらない事だから、お礼を言う必要もない」「余計なことをしてくれた」という態度で返すのか。

私の場合、何かの時は前者のタイプだから、今回の件で違和感を覚えているわけです。

行為そのものは「いらないこと」だとしても、私のために何かをしてあげようと思ってくれた「その気持ちにありがとう」という思いが、私にはあるからです。

だけど、大抵の人は「それ」「そこ」しか見ないことが多いので、「それ」や「そこ」に至った経緯について考えが至らないことも多いです。

誰かに何かを差し出す時、その差し出すまでにいろんな思いが交錯します。

喜んでもらえるかな
これ、あの人は好きだったよな

など、いろんな想いが形になったのが「行動の結果」です。

私にとってのこの場合は:
大きくて重いおなかを支えている腰は、何かに寄りかかるほうが楽なんだろうな、という想像
座った方が楽なら、譲りたい、という思い
嫌ならまた私が座ればいい、というオプション

を考えて、声をかけました。

相手が何を考えていたかは分かりません。
ただ、シレッと「大丈夫です」という言葉が笑顔なしで返ってくると、戸惑いました。

譲ろうとした私はいけないことをしたのか?
「嫌ならまた座ればいい」のオプションは、ここでやったらどうなる?
「やっぱり、この人、本気で譲る気なんかなかったんじゃない」と、別の気持ちを作ってしまうんじゃないだろうか?

結果的に座っていただけたので、こちらもホッとしましたが・・・
最後の最後まで、だんなさんを含め(座るよう促してくれましたが、彼からも一言も返ってこなかったので)、よかったのかどうか、疑問が残る一件でした。

そこへ、冒頭の「譲ってもらえない」とのギャップ。

何についてもそうですが、やはり、譲る側・譲られる側、人それぞれなのだろうと思います。
各自の価値観、想像力、共感度、その場の空気に流されるかどうか、人目を気にするかどうか・・・などなど、個人の行動につながる理由が影響していることだってありますし。

「労わりを受けたい」と自分の時には思うのに、自分から人に労わることはない・・・という人もいるし。
「文句を聞かされたくない」という割に、自分は文句ばかり言っている人もいるし。

自己評価と、他人からの評価とは差が大きい場合もあるし。
(よいことであれ、悪いことであれ)

膝が痛くて立っていられない・・・けれど、マタニティマークのようなものはないから、見た目は若いのに、誰かに席を変わってもらうことができないという人もいる可能性だってあります。
逆に、既に自分は(膝が痛いから)座っているのだけど、その姿からは誰もそう思っておらず、席を変わらないことを責められている感じがする人もいるでしょう。
場合によっては「アナタ、変わってあげなさい」と、お年寄りから促される人もいるかもしれません。

見た目では、本当のことは分からないだけに。

電車の場合、優先席に「とてもこの人がそうであるようには見えない」という人もいるでしょうから、その場合は何か策を講じる必要があるかもしれませんね。

最近は、見た目ではその辛さが測りかねる人向けに作られた「ヘルプマーク 」というものも存在するそうですが、なかなか意味の周知は進んでいないようです。

余談ですが、以前、電車通勤をしていた時に思っていたことがあります。
おでこに定期券を貼り付けて、寝る・・・という案。
降りたいところで寝過ごすことがありがちだけど、こうすることで「降りなくていいんですか?」と声をかけてもらうことも可能になるかも?と。
座りたい人は、この定期を見て「この人、あといくつで降りるな」と分かるし。
いつまで経っても降りないといういら立ちも減る・笑

これは電車で寝ている人のことについてですが、こうした「表示」って、今回の話題では有効になりませんか?
ウソを付く人は、とことんウソを付くので、これが絶対ではありませんけれど。

公の場として、公共機関は当然入るわけですが、どういう訳か、その「公共である」という感覚が薄れている人が増えています。
だから、食事をしたり(絶対にダメとは言いませんが、ニオイが出たり、こぼれるものはさすがにNGでしょう)、お化粧をしたり、両脇に座っている人の迷惑も顧みず、自分の腕の揺れを気にせずゲームをする人がいるのは、この感覚の薄れから来ていることは間違いありません。

そして、マークを付けている側の人の行動も「待ち」であるだけでは、つらいばかりです。
時には、必要に応じて「すみませんが」と声をかけることをしましょう。
人にしてもらうことを望んでいるから、「どうして譲ってくれないの?」という思いが出てくるのです。
マークを見てよ、このマークが見えないの?と、気付いてほしがるのです。

正しいことをしている自信があるならば、自分が「譲られる側」であろうと「譲ってあげる側」であろうと、自信を持って行動がとれるのではないかと思うのです。
言うは易しであることは承知の上での発言ですが、この「正しさの自信」については言い得ていませんか?

まだおなかが目立たない頃に「気分がすぐれないから」というと「だったら家に居ろよ」と言われることを恐れているのであるならば、それはご自身で「本当にすべきはどちらか」を考えるのがいいでしょう。

仕事を優先しているから、辞められないから、理解が求められないから、仕方なく仕事に行くのであれば、それは仕事を優先しているご自身にも問題があります。

たまたま外出していたら、気分がすぐれなくなってきた・・・というのであれば、一旦降りて様子を見るか、それとも座れれば解決するのか、そこも考えれば自分で結論が出せます。

パニック障害があった私は、電車に乗り続けて早く帰りたいか、それとも一旦降りて気分を落ち着かせようか、自分に聞きました。
誰かに席を変わってもらったところで、乗り続けていることが心地いいかどうかは自分で判断するしかありません。

譲ってほしいと望む方は、場合によっては「座っていられれば、ずっと乗り続けていられるのに」という思いがあるのではないかと思いますが、いかがでしょう?
気分が悪くなりやすい妊娠中であっても、電車に乗り続けていくことや、仕事をし続けて育児休暇まで働くことをを自分に強いるのは、望ましい妊娠生活の形ですか?

世間が優しくない・・・と嘆くのも、理解はできますが、世間が優しかろうが、そうでなかろうが、そもそもご自身の体をどう扱うのがベストなのかを改めて考えてみることも必要です。

最近、この件に限らず、あらゆることで「人を動かして、自分は動かない」という行動が多いことを、私は常々感じていました。
これも、実はそのうちの一つのように思えてくるのも、正直な気持ちです。

何が本当にすべきことなのか。
それを各自が考え、感じることができれば、お互い気持ちよく生活できることは、かなりあるように思います。

「自分がされて嫌なことは、人にはしない」
「自分が人にされて嬉しいことを、人にする」
「でも、自分がされて嬉しいからと言って、人も嬉しいとは限らない」
「人にされたら嫌なことだと自分は思うことであっても、人は喜ぶことである場合がある」
「他人は自分であると思え」
「人がホッとすることをすれば、世界は平和につながっていく」

この辺りを頭に置いておけば、そして、これを幼児の頃から理解させるようにしていけば、それなりに優しい社会ができると思うのですが・・・