こんばんは 「ようよう坂町」
今日のわが家の隣の公園の桜です。隣家のカイドウ桜とライトアップ
の桜です。右は違う桜ですが、今が満開でしょうか。見事ですね。
ライトアップしている桜は,もう散り始めています。
さて、今日13日は何の日でしょうか。「かわいい子には旅を?」と、
青春真っ只中の25才の時、何んと会社を半年休職し、学生時代か
らの夢であった海外自転車旅行に1人息子が一人で旅立った38年
前のその日なのです。その当時はアメリカドルが308円、豪ドルが
400円の時代でした。今は米ドルが85円、豪ドルが90円ですから、
日本にとってはまだ肩身の狭い海外旅行でした。給料が5万円の時、
70万の自己資金と50万円の借入金と計120万円をかけた私にと
っては青春時代の一大行事でした。
不安な気持ちを持ちながら、広島港を大阪までフェリー(今はありま
せん)で旅立ったのが今日13日でした。その日は金曜日で、ヨーロ
ッパでは不吉といわれていますが、日本では13は吉の数字というこ
とでの出発です。広島港には大勢の仲間が横断幕を持って見送り
にかけつけてくれました。持ち物は輪行袋に折りたたんだ自転車と
唐草模様の大風呂敷に包んだ荷物でした。大風呂敷は後で役立つ
ことになります。
そして神戸から船に乗り、横浜、グアム、ラバウル経由で約2週間の
船旅の後、オーストラリアのブリスベーンで一人降り、自転車の一人
旅が始まりました。それまで一人で国内(大学時代の自転車旅行は
団体)でも長期に家を離れたがなく、不安がいっぱいのスタートでした。
神戸港で乗船を心細く一人待つ私です。乗船した「キャセイ号」です。
いよいよ神戸を出港です。神戸のいとこが見送りに来てくれました。
神戸から横浜港へと船出です。初めての海外船旅の船は1万5千トン
であまり大きくはありませんでしたが、モノクラスで約2百名の乗客で、
割と家族的に雰囲気のクルーズでした。この程度の規模の船だった
からよかったのか同乗の日本人やオーストラリア人と2週間の間、
船旅は3度の食事は素晴らしいし、日中の船内の過ごし方はバラエ
ティに富んだ企画がされており、それぞれに楽しむことができます。
船上でのバーベキューパーティです。もう既に船友達ができ、楽しい
ひと時です。日本人女性が持ってきた着物をオーストラリアの女の子
が着せてもらい、うれしそうです。
夜はパーティ続きですので、ダンスは必須です。パーティにもいろいろ
あり、仮装パーティなどもあります。長い海外への船旅は、寝食をとも
にし、船内という狭いエリアの中で、鉄板一つ先はあの世という特別な
生活を共有しますので、そこで生まれた仲間意識は強く、生涯の友を
ブリスベーンという北の年に4月下旬1人で降り立ち、そこから自転
車でシドニー、首都キャンベラを過ぎ、2千㎞先のメルボルンに着い
たのが出発して2ヶ月ぐらいでした。メルボルンには船の中で一緒で
あった日本人女性が滞在していました。彼女らと会うのが楽しみでし
た。メルボルンに到着し、安心すると自転車で走るのがいやになり、
自転車を彼女らのフラットに置いて、メルボルン発着の3週間のキャ
ンピングバスツアーに出かけました。ツアー中はもちろん英語のみの
世界で大変でした。この間テントを張り、飯を炊きながらのツアーでし
たが、オーストラリアの東から北、そして中央部のエアーズロックなど
計1万kmの貴重な体験ツアーでした。食事はクッキング係のスタッフ
がいましたが、ツアー客も手伝います。テント生活の中にも夜はパー
ティなどもあります。唐草模様の大風呂敷が着物に変身してのパー
ティ参加です。
田舎ではホテルが唯一のバーでビールが飲めます。それが楽しみ
でもあります。今は厳しく信じられませんが、バスの運転手も飲んで
いましたよ。大陸内陸部にある今は世界遺産になっているエアーズ
ロックに登りました。麓に2泊しましたので、高さは約400mの1枚
岩で、計3回登りました。そして周囲は何んと8㎞もあり、これも走っ
て1周しました。頂上からは何と150㎞先まで見えました。広島から
岡山の距離ですから、空気が澄んでいるのか信じられない距離です。
右が私、左はバスツアーの女性です。手はつないでいるわけではあ
りません。風が強いので吹き飛ばされないようにしているところです。
のフラットに住んでいる彼女たちとはシティ中心部にある中央郵便局
(GPO)で待ち合わせるのが常でした。また、このGPOは日本へ手紙
を送ったり、日本からの懐かしい手紙を受け取ったりする場所でもあ
りました。3年前にメルボルンを訪れた時、その当時の船で一緒の皆
さんです。右側から3人が福島ご家族(船で初めて知り合い、その後
結婚しもう30年以上メルボルンに住んでいます)、左からまゆみさん
(その当時の女性)とその旦那のピーターさん、真中の白いのがわが
妻です。
何年か前に火災になり、それを契機にショッピングセンターに衣替え
したのことです。吹き抜けの建物は歴史の重みもあり、高級感が醸し
出されています。こんな風に座って待っていました。
その懐かしいGPOも今では外観だけが残っており、中は高級ファッ
ションのショッピングセンターになって、昔の面影はありませんでした。
キャンピングツアーやメルボルンでの楽しい生活からから久しぶり
の自転車ツアーの再開です。郊外は平坦で単調な道路が続きます。
オーストラリアは概して沿岸部がアップダウンが多く、内陸部は平坦
です。国土を横から見ると台形上になっています。メルボルンを出て
しばらく行き、ウーナンブルへ入る手前の道路で新聞社の記者に呼
び止められ、インタビューされました。現地の新聞の取材は2回目で
した。一面にでかでかと出ていました。
ウーナンブルで一泊した後、出発した直後、わき見をしていたのか
止まっている車にぶつかり転倒。自転車の前輪のホークが曲がって
しまい、その修理のため1日延泊をしました。そのおかげで新聞を購
入することができました。ウーナンブルの町中です。西部劇に出て
宿泊場所のキャラバンパークは今では「ファミリーパーク」となってい
来そうな古い町です。
ました。調理施設やシャワーは完備されており、自炊に便利です。
洗濯機もあり、アイロンがけもできます。ちょうど泊まった時が冬だっ
たので、テントを張ってキャンプする人もなく常住のキャンピングカー
があるだけでした。
そこから再び最終地点のアデレードを目指して進んでいきますが、道
路は直線で平坦なので、自転車は走り易いのですが、車もスピードを
出しており、特にロードトレインと呼ばれる3重連ぐらいの大型トラック
は吹き飛ばされそうで、自転車にとっては恐怖です。今では道路の端
の路側帯は舗装されていますが、その当時は砂利。大型トラックが通
最終地点のアデレードへは早く着きたいきもちで、最後の250㎞を徹
るたびに砂利道へ追いやられ転倒しそうでした。
夜走行しました。夜間走行は真っ暗な中、正直いって怖かったですが、
日本の歌を大きな歌いながら、自らを奮い立たせての走行で、何とか
無事アデレードに着くことができました。
厳しい就活、リストラなどの人員削減などが社会問題になっている現
在では、到底考えられない会社を6ヶ月も休職し、オーストラリアを3ヶ
月3千㎞、ニュージーランドを3ヶ月5千㎞の自転車1人旅でした。
アデレードから電車でシドニーに帰り、船でニュージーランドに行く予定
でしたが、予約ができず、飛行機でオークランドに行きました。荷物の
総重量は60㎏を超えていましたが、カンタス航空の係員は「ユーアー
ラッキー」といって無料にしてくれました。気持ちよくオークランドに降り
立ち、自転車を組み立て、時間調整のため、北部にかかるハーバー
ブリッジを渡っているとパトカーに止められました。自動車専用道路
だったのです。始末書を書かされ、幸先の悪いスタートとなりました。
オークランドの夜景ですが、右のタワーはその当時ありませんでした。
イーデン山という小高い所に宿舎のユースホステルがありましたので、
市内への上り下りが大変でした。
ニュージーランドは3ヶ月で一周しました。船で出合い、今メルボルン
に住んでいる福島さんのフラットにとめてもらったり、ワナカ湖では
その子はダニーデンからバカンスできており、再びダニーデンで合う
ことになりました。
ニュージーランドは国中が牧場のようで、羊が一杯でした。クライスト
チャーチの郊外はカンタベリー平原ですが、平坦な道が続きます。
内陸に入ると雪をかぶった山々が美しく輝いています。クイーンズ
今はなきクライストチャーチのシンボル大聖堂です。そしてガーデン
シティを象徴するハグレー公園とエイボン川です。
昨年妻の還暦記念で旅しました。
出発後5ヶ月たったニュージーランドの首都ウェリントンで新聞掲載さ
南島の最南端の町、インバーカーギルでも新聞に載りました。もうツ
アー最後頃なので髪やひげが伸び放題です。
右側は最終のオークランドで散髪をした後に新聞社に取材を受けた
時の写真です。若かれし頃の写真は髪がふさふさとしています。
約6ヶ月余りの海外自転車一人旅は今となっては考えられないよう
なことですが、若気の至りでしょうか。でもそれが縁となり、今の妻と
結婚ができたし、友達のありがたさ、そしてふるさとのよさを再発見
したことにより、その後その会社を辞め、地元での開業し、商工会
とのご縁があでき、ついには商工会で仕事をさせていただくことに
なりましたので、38年前の今日スタートした旅は、結果的には私の
人生を左右したようです。