10月に入り、全国展開事業補助事業遂行状況報告書の提出、モニターウォークの開催と忙しく、ボランティア養成講座の報告が遅くなったのですが、講座最終回は、『津和野街道の歴史、ルートについて』です。
『津和野街道ブランド化事業』をトータルプロデュースされています『ヴィッツプレゼンテーション』 代表 広兼 高士先生より津和野街道ルート、歴史についての講義をうけました。
参加者の皆さん資料に書き込みながら、熱心に受講されていました。
津和野街道の主な目的と歴史については、津和野藩が津和野から廿日市市御船屋敷への参勤交代の道であり、和紙、炭、マキ、穀物など物資の輸送ルートとしての交易の道、また、津和野町『太鼓谷稲荷神社』廿日市市『厳島神社』吉賀町『小島神社』などへの参拝の交流の道であった。そして明治初期、キリシタン弾圧により長崎浦上より津和野「乙女峠」に流配となり、 殉教者36名を含むキリシタンの人達153名がたどった路で、キリスト教(カトリック)信者の殉教の道でもあると、歴史的な背景を踏まえながら、津和野街道全域の地図よりルートの説明がありました。
講座の中では、津和野街道に関した史跡も多く紹介され、佐伯商工会の近くにある、『十王堂』と岩倉温泉付近の『帯掛明神と重り岩』少し紹介しましょう。
十王とは、冥土への旅を裁く閻魔王(エンマオウ)を代表とする十人の裁判官です。このことから宿場の結界として、 守り神として、街道や宿場の出入り口に多く建立され、旅人はまず十王堂に向い、今日の旅の厄を落とし、安全を祈願し宿場へと入ったようです。この十王信仰は中国から伝わり、 鎌倉時代に全国に広まったと言われます。
『十王堂』
お堂の中には十王が祀られています。
おもしろい伝説が残る『帯掛明神と重り岩』です。
夕方の撮影で岩が重なっている所が見えにくいのですが、重なり合って今にも落ちそうなこの岩は昔、参勤交代で通りかかった殿様が危険であるとして上から落とした際も、翌日は元の位置に戻っていたという伝説が残っていて、『落ちない』と縁起を担ぎ、受験生が合格祈願に来られるそうです。
重なり岩の前にあるのが「帯掛明神」です。昔、市杵島姫命が乳飲み子を背負い、出雲から厳島まで旅する途中、ここで休み帯を岩に掛けたことから「帯掛け岩」とも呼ばれ市杵島姫命を祀り帯掛明神としました。
このような観光ガイドのポイントを広兼先生に楽しく紹介していただき、最後にガイドは楽しみながら、気持ちを込めて迎い入れ、また、訪れたいと思う気持ちを持ち帰っていただけるようにと、アドバイスいただきました。
5回のボランティア観光ガイド養成講座も終わり、私自身もいろんな勉強をさせていただきました。
受講者の中には、山口県錦町からも参加され、住まいの隣が津和野街道であったり、本陣跡に住まれている方等、津和野街道が好きで、興味を持たれた方が集まられていますので、皆さん、とても熱心に受講してくださいました。
これからも部会の定例会を設け、街道の清掃やウォークのガイド役など津和野街道ブランド化事業サポートしていただける頼もしいボランティアガイド部会の活躍を期待したいと思います。